此の間、攘夷運動は益々さかんとなり、外人殺傷事件が続発した。安政六年(一八五九)横浜で起こったロシヤ士官と水兵殺傷を皮切りに、万延元年(一八六〇)のプロシア通訳官ヒュースケン殺害、文久元年(一八六一)のイギリス公使館東禅寺襲撃など、この種の事件が後を断たなかった。これら諸事件の犯人は一人も逮捕されず、その責任は総て幕府にかかり、外交的財政的に苦境に陥し入れられた。この時点の攘夷運動は、神州を夷狄に汚されまいとする単純な排外思想であり、政治的には幕府の開港政策の転換を迫るものであって、倒幕運動に直結するものでなかったが、国学や水戸学の影響で高まって来た尊王思想とは、朝廷の攘夷政策と関連して容易に結びついていった。