当時尊王攘夷の志士といわれた人々は、脱藩浪士、郷士、神官、僧侶から諸藩士に至るまで、種々様々であった。彼らは、主に京都を中心に政治活動を展開し、公武合体派や開国派に対し天誅と称するテロ活動を行なっていた。一方、広く全国を遊説して回る者もあり、各地の志士や同調者と連絡をとっていた。安政七年六月二三日付けで関東取締出役から郷土の村々に回された人相書(19)は、その様態から政治犯の指名手配のように思える。芝新堀将監橋辺屋敷方に同居していた山村八百平四二才の人相は次のようなものであった。
「中丈(ちゅうだけ)、太り候方、色白く角顔、眼するどく、鼻筋通り、小鼻ひらき、耳たぶ小サく、月代(さかやき)至って狹く、鬢(びん)厚くおくれ毛これ有り、音舌さわやかニて咄口(はなしぐち)高慢なる方、手足太く大なる方、大小柄鞘(つかさや)共ニて凡そ四尺五、六寸程、其節之衣類木綿紺立の竪縞単物(たてじまひとえもの)、白木綿稽古(けいこ)着を下ニ着し、紺鼠(こんねすみ)博多帯、小倉白茶竪縞、板これ無き馬乗袴、劔術稽古道具」
この稽古道具を召使侍の古谷清次二五才に持たせ、浪士松田鉄太郎三五才と同道している。この二人の人相もくわしく述べられているが、少なくとも破廉恥犯の指名手配とは受取れない。尊攘浪士の類と考えられる。