尊王攘夷運動の波紋を、房総の地に直接波及させたのは水戸藩の過激派である。水戸藩では安政五年(一八五八)の攘夷の内勅返上問題以来保守派と過激派に分かれ、藩内での紛争が絶えなかった。この内勅とは、幕府の通商条約調印に反発した尊攘派が、水戸藩へ勅書を下し、幕府の外交方針の転換を図ったものである。孝明天皇ご自身も攘夷派であり、幕府のやり方に強い不満をもっていたので、水戸藩への勅書は容易に下された。その要旨は、「勅命にそむいて通商条約を結んだ幕府のやり方は軽率である。諸大名と合議して幕府を宜しく助けよ。」といった穏かなものであったが、裏には、幕府に対する烈しい怒りと、攘夷実行の要望が秘められていた。内勅降下に対し、幕府の強い干渉が始まり、水戸藩の大勢は内勅返上に決ったが、過激派は長岡に屯集し勅命の実行を迫った。しかし、これは一応鎮静した。安政の大獄は、この勅諚降下を機に断行された。攘夷派を一掃しなければ、再び前例のない大名への勅命降下が行なわれることを恐れたのである。しかし、事態は幕府の意図とは逆に進行し、桜田門外の変を引き起こした。
一度は鎮静していた水戸藩の紛争は、文久三年夏ころから再発した。那珂、小川、潮来(いたこ)等に過激派が集まり攘夷を高唱し始めた。この内潮来に参集した誠信組は、利根川を越して佐原に乱入し、金穀を強要した。いつの時でも同じように、このような騒乱には無頼の徒が加わるものである。その為、金穀を奪い人を殺すというような乱脈さとなった。天狗党の筑波山挙兵は、元治元年三月ころからである。このような攘夷騒ぎは、房総の地にも波及した。郷土に関係するものでは、真忠組騒動がある。