5 真忠組騒動

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文久三年(一八六三)一二月より、翌四年一月にかけて、上総国山辺郡小関村新開(現山武郡九十九里町)作田川のほとり大村屋という旅館に、「報国救民館真忠組当分住所」と書いた看板を掲げ、野州浪人楠音次郎正光と称する者を首領として二百名近くの浪士が屯集し、かつ、分営を茂原村妙光寺(藻原寺)塔頭(たっちゅう)東光院及び八日市場村福善寺に置き、攘夷実行のため武器・弾薬を必要とするとして、所在の富豪から金穀・武器を徴発し、救民と唱え徴発した金穀を貧民に施し、また、提訴・張訴・捨訴ならびに公事出入を取上げ、法廷を設けて裁判を行なうなど、短期間ではあるがこの地方一帯を支配した。(20)『改訂房総叢書』によれば、楠音次郎とは、山辺郡井之内村の人檜山民弥となっている。しかし、生国は不明である。
 真忠組触書は、寄場村々へ順達され、刑部村名主内藤三郎兵衛も年々用留に書留めている。
 「抑、我等者報国赤心同盟之義士ニ而、為国家之ニ身命を投し、万民困窮を免(まぬかれ)志めん之存意」と書出している。内容を要約すると、異船が来航し和親を説いているが、陰では国郡を併呑しようと巧んでいる。御打払いの御廟算があったが武備が未だ整っていないので仮に条約を結んだ。やがて講武習戦の上攘夷が実行されることになっている。その際徴忠を捧げるため同盟を結んだ。ところが、攘夷のことがのびのびになってしまった。そのため、夷国は愚民姦商を惑わして皇国有用の財を奪い、和国に無用の品を高値に売りつけている。このようなときに当たって、高位高官の者は賄賂に魂を奪われ、忠義の士は命を落とし、恥を所る者は病と称して役を辞してしまった。諸国大名は自国防禦を専一と考えて帰国してしまったので、御公儀は愈々御手薄となった。そこで、慷慨の士が国々に党を結び、邪正を正し、皇国の汚辱を一洗しようと図った。ところが、江戸新徴組、水戸誠信組、我等真忠組等の名を偽って押込強盗をはたらく悪党も現れた。ために人気が悪くなり、農民は米穀を囲いかくし、市人は金銭を蓄え、貧民は愈々貧しく、父子兄弟離散し、凍餓する時が近い。われわれ同盟の輩は身命を公儀へ差上げ、及ばずながら皇国の災の根本を断とうとするものである。その手初めとして、下民を苦しめる悪賊を討ち、近郷の患を除こうとしている。このような者がいたら、よくよく真偽を糺し、江戸・水戸両組頭分に問い合わせて処分し、宿々在々の難儀を救おうとするものである。
 この触書は、攘夷を最終目的とし、その手初めに近郷の悪賊を討つことをうたっている。あくまで、公儀御手薄を補うものであり、また江戸新徴組や水戸誠信組とつながりのあることをにおわしている。少なくとも、討幕には結びついていない。短期間に掃討されたので、本当に思想をもった集団か不逞の徒の集まりか不明であるが、触書の趣旨はよく天下の大勢をとらえているので、主謀者は相当識見の広い者と考えられる。茂原村分営の大将は三浦帯刀といった。帯刀は、佐原地方を知行していた旗本津田英三郎の家臣で、本名小口順之助、故あって浪人していたが、楠音次郎と謀ってこの挙に出た首謀者のひとりである。
 彼らは、先ず村々の富豪から武器米穀を徴発した。郷土近辺では、文久三年一二月一九日、埴生郡立木村大庄屋高橋民之助から、武器準備金として二百両を差出させている。続いて茂原村組合の富裕な百姓に三百両を賦課した。貧民救済を掲げているので、高割りとせず、富農五七軒に割当てた。郷土長柄の村々では、次のような人々が賦課された。
 金六両二分三朱七分五厘 味庄村名主八郎右衛門、国府里村名主新左衛門、金四両一分三朱一匁七分五厘 千代丸村名主太郎左衛門、舟木村名主重兵衛、山根村組頭藤助、金四両一分二朱六匁五分 力丸村組頭七郎左衛門、金三両二分一朱六分五厘 山根村名主新左衛門、金二両三朱二匁七分五厘 力丸村名主孫右衛門、金二両二朱六匁五分味庄村組頭重郎兵衛、国府里村名主金平、以上計一〇人である。
 次第に武器や資金が整うと、服装を立派にし、鉄炮や鎗を携えて威風堂々と押歩いたので、賦課される前に金品を差出す者も現れた。しかし、現在までの調査では、刑部村組合や長柄山村組合からは、金品を拠出した証拠は認められない。
 真忠組討伐に当たっての幕府の処置は、他に類例がない程迅速であった。文久三年一二月、真忠組討伐の触書が回された。刑部村名主内藤三郎兵衛の年々用留には、真忠組の触書と関東取締出役からの回状が、仲良く並んで書き写されている。「……帯刀致居候共、浪人体ニ而怪敷見受候分者、無用捨召捕、手向致候ハヽ切捨候共打殺候共」苦しくないと指示しているが、帯刀者が多数屯集し、横行していたのでは百姓に手が出るはずがない。
 文久四年一月一七日、小関村を領分としていた奥州福島三万石板倉勝顕と関東取締出役馬場俊蔵の手勢を主力として、それに多古藩兵、一宮藩兵が応援に加わり、小関村の本営を急襲した。ここで、真忠組の主だった者は斬殺または逮捕された。
 真忠組の挙兵は、触の文面から見れば憂国の情から発したものであるが、実際の行動については行き過ぎも多い。しかし、ある程度政局に明かるく文筆にたけた者がいなければあれだけの文章は書けない。首領株以外は百姓出の無宿者が多いが、これは災難を恐れた家族が、あわてて帳外にしたものと考えられる。辞世の句を残した者が大勢いるところからみると、村役人層の子弟がはいっていたと考えられる。薩摩藩では御用盗を組織して意図的に江戸の治安を乱したという。動乱の時代において、真忠組を単なる不逞の徒の集団と断定することもできない。貧民に施与していることも事実である。正しい評価は今後の研究にまつ以外にない。
 ともあれ、二百年余りも銃火剣戟の音を聞くことの無かったこの地方では、まさに大騒ぎであった。

真忠組討伐かわら版(長生村水口 市東三樹夫家蔵)