寺子屋は、一般庶民の子どもを対象として、読書算の基礎学力を養う教育機関である。寺子屋の発祥は、遠く平安時代、僧空海が、大学や国学に入れない庶民の子弟のため、天長五年(八二八)京都に綜芸種智院という私立学校を開いたのが先駆だと云われている。その後、鎌倉、室町、安土桃山時代を経て江戸時代に最も普及したのであるが、最初は、寺院で僧侶を教師として学ぶ形態から出発した。その後大寺院では僧侶の養成に専念しなければならない関係上、小寺院の手にうつったが、就学児童が増加するにつれて寺院では収容しきれず、寺院以外の建物に教室を設け、僧侶だけでなく、書家、神官、医者、武士、庶民の中の学問ある者などが教育を分担するようになった。それらの教育所を「寺」又は「寺屋」と云い、学童を「寺子」と呼んだ、寺子屋へ入学することを「寺入」といったが、そのほか、「手習子」「筆子」などのことばも用いられた。
寺子屋は、幕府や諸藩の保護指導をうけて、天保・安政(一八三〇―五九)になって全盛期に達し、地方小都市から更に農村の大きな部落にまで普及した。
子どもが六、七才に達すると親につれられ、机、硯、草子、筆などを持って、束脩――今の入学金又は礼の品を用意し寺入する。授業は大体午前八時から午後三時までで、寺子の数は二、三〇人が多かった。
本県の状況をみると、寺子屋六二六、私塾二九七あったことが知られ、その中長生郡には、寺子屋七、私塾二〇となっているが、長柄町の寺子屋はあげられていない。