長柄町山根の山根家(当主泰次氏)は、曽ては若菜姓を名のり、三・四代に亘って与治衛門を襲名した。それが因縁となって同家の屋号として呼びつゞけられてきた。
最初の与治衛門は、備前岡田藩と連りのある士族であったが明治四年(一八七一)七月十四日廃藩置県の詔が発せられた時、その族称を辞し、山根の地名に因んで山根姓に改めたという。この与治衛門が私塾を開いて庶民の教育にたづさわったといわれている。それは安永年間から明治初年に及んだものと推定される。それを裏付ける資料として次の事柄をあげることができる。
第一は、山根にある万蔵寺の山根家墓石の銘にみることができる。即ち一基に「妙法高岸林栄霊、安永八年己亥九月二十一日逝」とあり、その右側面に「妙法修得縁了旅主乎学門弟中、安永八己亥十二月四日」左側面に「俗名若菜長重 行年十八才」とあり、別の一基には「妙法詮量院法寿日如居士、享和二壬戌年十月十一日」とあり、右側面に「もろもろの花も散ればもとの土」という句が刻まれ、台石の正面に、願主若菜与治衛門、村々筆子惣連中と刻まれている。第二に、山根家の裏山に、通称天神様と云う菅原道真公を祀った石像がある。その裏側に「奉建立手習子供十八人、寛政十一未九月吉日」と刻みつけてある。第三に、二十年前九十才で病歿した近隣の大和久幸太郎氏は、塾生の一人で、この塾で「よみ・書き・そろばん」を学んだが、師匠の教え振りは厳格そのものであったと、折にふれ口外するのを耳にしたと山根泰次氏は語っている。
以上のことからこれを総合すると、安永、寛政、享和にかけて家塾(寺子屋といってよいであろう)が続けられたことが想像される。たゞこの塾での、教育内容、教授時数、月謝などについて判然たる資料が見当らないのは残念であるが、教科書については、書経、易経、詩経、春秋左伝校本第九等保存されており、なお当時塾生が使用したと云う机が数脚残っていることで往時を忍ばせるものがある。ところで『千葉県教育史』第一巻によれば安永年間に寺子屋が開業されていたのは山武一、印旛一だけで、それ以前は僅に三件のみであるので、山根家の家塾は本県でも最も古いものの一つである。