この塾は、旧水上村大津倉正善寺にあった。それは同寺跡に教えをうけた子弟約五十名が明治十五年に建立した碑記により伺い知ることができる。即ち石碑には、官事院日詣大徳として「詣鷲山師者、遠江国敷智郡鷲津村星川氏五男、夙入仏門学東京、究八宗之奥、而后住当山四十余年、温厚謹倹人浴其風、傍好儒妙書、従学者百余名、茲明治十四年十一月廿九日歿、寿七十七、子弟相議建碑」とあり裏に碑をたてた門人名が記してある。これをみると、師匠は同寺住職日詣師で、遠江国鷲津村生れ、星川氏の五男で、早くから東京に出て、八宗に通ずると共に儒学や書道に秀でていた。天保年間こゝに移り開塾したが人格は温厚でつゝしみ深く塾生も百余人に上ったとある。建碑の門人をみると大津倉大木道太郎以下二七人、田代村九人、今泉村一人、大庭村四人、金谷村一人となっているので相当広範囲の村々から教えをうけにきたことが伺えよう。