4 内藤塾

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内藤塾は旧水上村篠網二三四八番地内藤泰雄宅にあった。今同家に残る、内藤家伝記(内藤三郎平記)その他の文書によって、その概要を述べる。
 内藤塾は、上の表の如く、三代に亘って開業されていた。最初に開いたのは、道慶という人である。道慶は、安永六年(一七七七)内藤家に生まれ、「筆学ヲ好ミ、文化ノ頃(一八〇四)ヨリ村民ヲ教授ス」「永ク名主ヲ勤メ、文政四年(一八二一)一月、田畑名寄帳、地方毛附明細帳ヲ作ル、晩年地頭布施氏ヨリソノ勤労ヲ賞サレ年々米若干ヲ下賜サル」と記されている。私塾の内容について、その詳細は明かでないが、その人柄や教養について伺い知ることができよう。
指導者開塾年
初代内藤三郎兵衛 藤原道慶文化の頃より
二代  同    藤原道生弘化四年より
三代内藤三郎平  藤原道豊文久二年より

 二代は、道生で、この時代は、内藤塾の最も盛んな時代であった。現在刑部月輪寺境内に門人百余名が、元治元年八月に建立した「先山翁頌徳碑(先山は道生の号)」があるので、この碑記によって伺い知ることができる。
 先山は、名を謙という、字は子貞、通称三郎兵衛と云った。天性幼小より筆学を好んだと云われ、「三十才始開筆学道場、幼童長壮之弟子日漸月多」とあるから、三十才で私塾を開き、子供や青年までの者を教え、日がたち月が進むに従い、数多くの門人が集ってきた。そして指導に当っては、温順慈恵の態度で当り「有益なるものを貴び、無益なるものを省く」実利主義に則して教えたので、生徒は益々多くなり、教育の効果も上った。ところが文久二年(一八六二)七、八月にコレラが流行し、先山もこれに羅り、五一才でこの世を去った。この死をきいて「幾百之弟子」がなげき悲しんだと云う。しかし教育内容等についての資料は見当らないが算学等も教えていたようである。その後門人である刑部村温古堂泰年以下一七名が発起人となり、先山翁の碑を立てる計画をたてたところ、篠網井川吉五郎を始め総員百四名の賛助を得たので、碑文は、綱島の儒者、道部天年に依頼し、元治元年、先山の三周忌に当り碑をたてて、恩師の徳をたたえたのである。三代は、三郎平道豊である。彼は、綱島の道部天年に支那学、習字等を学び、八幡の永野昇平に、算術や測量術を学んでいる。又先山のあとをついで、文久二年(一八六二)九月に私塾を開き、明治六年、小学校教師となり一時やめたが明治二五年再び塾を開き、明治の末期まで続けていたという。生徒は、長柄山、新巻、大津倉、田代等相当広範囲から通塾、習字、珠算、筆算、などの教授をうけた。毎日、三十余名の生徒がいて極めて賑かであったとの古老の話しであるが、資料が乏しく正確に記せないのが残念である。尚ほ内藤家は、文禄三年(一五九四)道博という人が測量術を収得して、田畑の反別諸帳簿を調整し以後永く名主役をつとめ、数学の力をもった人が多かったとのことである。