7 三省学舎

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三省学舎は、明治十一年(一八七八)御園生辰五郎の創設した学舎で、初め長柄村舟木、御園生順蔵方にあったが、後中之台花井与惣次の居宅に移り、再び舟木に帰ったが、明治十七年本納町神房(大網白里町神房)に移し、こゝで病歿した。辰五郎の略歴をみると、氏は長柄郡舟木村の御園生家の次男に生まれた。家は代々農業を営み、父は荘左衛門と呼び、長男を荘太郎と云った。幼い頃から学問を好み、白鳥翁(本名不詳)について教をうけ、十二、三才で十三経句読を学び、好んで左伝及び文選を音読した。翁は氏をみて、このような秀才に出会ったことがないと激賞したと云う。成長してから京阪地方に赴き、学徳の高い人々を歴訪して経史及び国詩を修めて郷里に帰り、三省学舎(御園生塾ともいう)を創立し四隣の子弟を教えた。
 辰五郎は、天性温厚で公平、子弟に対しては愛憎の別なく、人に接しては徒らに私見を強要することはなかった。また、学問修業は、着実で浅いところから始め、追々深いところへと進む心掛が大切であると教訓し、前途に誤りのないようにしようと不断の配慮を怠らなかった。彼の人柄と教育精神とは、次第に周辺の人々の認める所となって、上野・山之郷・中の台・舟木等多くの子弟が人徳を慕い、入門するものが絶えなかったと云う。生徒数は九十名で女子二名が在学したが、入学年齢は十一才位で修業年限の規定はなかった。教科は、読書と習字で、読書の教科書は、実語教、童子教、今川、四書、五経、文選等、習字は村名、国尽、千字文等である。
 課業時刻は定まっていない。休日などの規定はなかった。授業料は、年額玄米壱斗(一五キロ)であった。教授方法は、師匠が先づ上級生に教え、それを生徒が順次下級生に教えてゆくといった助教方式に似た方法をとっていた。(長柄村郷土誌、金石文、千葉県教育史による)