8 択善学校

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明治廿五年(一八九二)三月十一日、長柄郡国府里村、高吉佐一郎氏の自宅を学舎として開校し択善学校と称した。教授科目は、漢学、地理、習字、珠算、作文であった。生徒数は、数十名にのぼり、大半は尋常小学校の卒業生であった。人々は国府里の学校とよんでいた。その後上長柄小学校の設置を機に、択善学校という校名を廃したが、私塾教育は続行していた。高吉基氏の談によれば、漢学の教科書には、四書五経、文選、十八史略、文章軌範、日本外史等、子どもの持参したものについて教授をした。その指導方法は、生徒ひとりびとりを教師の前に呼出し、先づ教師が範読し、生徒によませ、然る後に講義をした。程度の低い生徒には、よく日本外史をすゝめていたが、頼山陽の著作精神、特に楠公の七生報国、忠孝両全の段に及ぶと熱気をみなぎらせて講義したという。指導態度は、厳然としていたが、徒らに生徒に圧力をかけ学習意欲を失わせるようなことはなかった。
 習字の手本は、千字文、村名、国尽などで、珠算は加減乗除に亘り実用的なものを練習させた。授業時間は、大体午前八時より午後四時頃で、休日は祝祭日を主とし、日曜日は、生徒の自由意志にまかせ、出席すれば、長男佐吉郎が代講した。机は生徒が持参するのを立てまえとしたが、備品もあったので強制はしなかった。月謝は金納であったが、額ははっきりしない。寄宿もできた、遠方の子弟は、白米と寝具を持参し寄宿した。寄宿生は夜二時間位授業を行った。この塾は、佐一郎の還暦の年に閉鎖した。
 高吉佐一郎は、嘉永四年(一八五一)八月十五日、長柄郡千代丸村林太郎治の次男に生まれ、国府里村高吉佐衛門の養子となった。幼名泰助、佐一郎と改名、号を旭山といった。生来学問を好み、成長するに従い教育者になることを切望した。たまたま、顕本法華宗管長大僧正坂本日桓師が、若い頃、国府里村円満山広福寺第二六世住職として入山し後千葉郡生実村の本満寺に移っていることを知り、彼は同師を訪ね、学問修業の志を訴えたところ許されて入門することができた。以来ここで漢学及び経典について極めて厳格な指導をうけること数年更に韋庵岡本監輔について、漢詩の作詩及び作文の方法を学び、樋口逸斉に書道を学んだのである。明治四十三年二月二七日、門下生中の有力者が頌徳会を組織し、盛大なる感謝の会を催し頌徳文を呈して師の労をねぎらった。その後、昭和七年七月八十四才の長寿を全うして永眠した。

(上)励業学舎(味庄・柴崎宅内)
(中)先山翁頌徳碑(刑部・月輪寺境内)
(下)高吉佐一郎翁像