明治二十三年頃より昭和五年頃までの間で、充実した教育が行なわれたという。指導者の鹿間すみ、日吉村の人、鹿間家に嫁し、昭和二十七年(一九五二)八〇才で歿した。生来極めて利潑で、神童と称される程であった。手先も器用で裁縫を得意とし、徳増小学校を卒業すると、千葉町の仕立屋(浜田呉服店の仕立をする店)にて更に裁縫の修業を志した。仕立屋を訪れ、仕立物を扱いたいといったら、主人は、田舎出の子女にどの位のことができるかと思ったであろうか。袴のひもを縫うように命ぜられたという。これが本人の腕前テストであった。その仕上げの結果をみて、主人は、直に店の最上級の仕立物を扱わせたとのことである。この一事からも本人の並々ならぬ才能がうかがえよう。一年余で家に帰り、近所の仕立物を引受けるかたわら、塾を開き、次第に盛大となった。すみは、単に裁縫のみでなく、読書力も旺盛で、広く各方面の書物もよみ、記憶力も抜群であったという。明治三十七年より四年間徳増及日吉小学校に、裁縫科嘱託教師として勤務したこともある。塾生は近隣の父母から裁縫を教えてほしいという要求が強かったので、教授することにしたという。十七、八才の女子が多く、常に四、五十人の塾生がいた。修業年限は四年位、一日中修業をした。謝礼は年間米一斗であった。裁縫の外、行儀作法、女のたしなみ等についても指導し、大きな影響を及ぼしている。