明治五年八月、学制が頒布された。学制に先立って、「学事奨励に関する大政官布告」が発せられたが、その要旨は、「邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事を期す」という、国民皆学の思想や「学問は身を立つるの財本」という実学主義の思想を含んだものであった。この学制は、「大体に於て、仏国の制度に則り、教則は米国の制度に則ったもの」で大編一〇九章に、翌年、翌々年の追加を合わせると、総計二一三章に上る膨大なものであった。フランスの学制にならったこの制度は、中央集権的なものであったが、これが学校制度の体系を決定し、これを実施する行政組織をつくるための章条であった。即ち、学校体系を、小学、中学、大学の三段階とし、小学校は、八年制で、上等小学(四年)下等小学(四年)の二段階とした。学校を設けるために、学区制を採用し、全国を八大学区に分け、各大学区に大学一校をおく、一大学区を三二中学区に分け、一中学区を二一〇小学区に分け、それぞれの学区に中学や小学校を設けることとした。これによると小学区は、人口六百人に一校の割合で、全国では、五三、七六〇校を設ける計画になる。政府は、まず小学校の開設から始めることとし、生徒就学の督励に力めたので、三、四年の間に二万六千ほどの小学校が設置された。本県でも、学区を定め、学校設立の準備にとりかゝり、本町に於ては、明治六年(一八七三)から同八年頃までに殆んど設立をみたのである。しかし、中学校や大学は殆んど手がつけられず、明治十年(一八七七)にようやく東京大学一校が開設されるにとどまった。尚この制度による学区は次のようであった。
木更津県の学区(安房国と上総国を合わせたもの、第一大学区に属した)
第十七番中学区―望陀、周准、天羽三郡(安房国)で一六五小学区に分つ
第十八番中学区―平郡、安房、朝夷、長狹四郡(安房国)で二二六小学区に分つ
第十九番中学区―夷隅、市原、埴生三郡(上総国)で、二二六小学区に分つ
第二十番中学区―長柄、山辺、武射三郡(上総国)で、二二三小学区に分つ、本町はこの学区であった。
のち千葉県の学区(明治六年、木更津、印旛両県を合併、千葉県とした)となって、中学区は八となり、番号も改められ、前記の二十番中学区は二十三番中学区となった。
さて、小学校の設立は、極めて早急に進められ、財政も乏しく、設立や運営の経費は、租税、寄付金、積立金授業料等によったため、住民の経営的負担は重く、取あえず寺院を仮校舎とし、さまざまなエピソードを残しながら、次第に整備していったのが実情であった。
小学校教員となるものは、男女をとわず年令二十才以上で師範学校卒業免状を有するものとしたが、そのような者は一人もなく、地方の寺子屋の師匠等を採用し、養成をしていった。任免は地方長官が行うものとした。
学校の取締りについては、地方長官の任命する学区取締(一中学区に一〇―一三名、一名で小学区二〇―三〇を受持つ)が当り、就学事務、学校の設立維持等の学習に関することを担任した。明治八年(一八七五)になると、庶務課の所管であった学校事務を、学務課を新設して、ここで行うこととした。府県内の学校事務は、すべて学務課の担当となり、教員、学区取締の人事に関する事務もつかさどることとなった。