明治五年の学制は、近代教育制度を確立する上で大きな貢献をしたが、あまりにも理想にすぎ、地方の実情にあわず、到底計画通り実施できないものであった。そのため、地方によっては、小学校を厄介視し、ひそかに私塾を開くなど、一般民心が、学校教育を忌むような気配もみられた。こうした弊害があらわれだした頃、アメリカより帰朝した文部大輔田中不二麿(一八四五―一九〇九)が「教育はアメリカの如く自由でなければならぬ。わが国の教育は、干渉にすぎるから自由にせねばならぬ」という意向を示し、学監デビット・マーレーとともにつくり上げたのが、明治十二年(一八七九)太政官布告第四〇号として公布された教育令である。
これは、学制で六才―十四才までを学令としたのに対し、僅か十六か月で義務教育を終わりうるとか、資力の乏しい地方では、教員巡回の方法を設けて児童に教授するとか、教科目を簡単なものにする等四十七条の基本的事項を定めたにとどまった。こうした教育令の方針は、地方によっては誤解して受取られ、政府はも早就学強制の方針を放棄し、人民の自由意志に任せたかの如くとったものもあった。このため、一時教育上の混乱が生じ、ここに自由教育令とよばれるゆえんとなったのである。