自由教育令は僅か一か年で、文部卿河野敏鎌により改正され、明治十三年(一八八〇)太政官布告第五九号として公布された。翌十四年には、「小学校教則綱領」が公布されて、制度や内容が改められた。即ち、小学校は、初等科三年、中等科三年、高等科二年とし、少くとも最初の三年は教育をうけること、内容は、道徳教育を重視し儒教主義の教育の振興に力を入れたのである。
つゞいて明治十八年(一八八五)の教育令再改正においては、学区が廃止され、小学校は町村が設置し、経費も町村が負担すること、学務委員が廃止され、学校世話係をおいたこと、半年進級制を改め、一年毎進級制にしたことなどがあげられる。そうして、教育は政府や県の強い指示監督の下に整備されていったのである。
なお、明治十一年、いわゆる新三法といわれる、郡区町村編成法、府県会規則、地方税規則が制定され、同十三年区町村会法の制定をみ、地方制度の基礎が固まって、教育振展の上にも大きな影響を及ぼした。