一つは進修小学校(味庄、中之台、山之郷、睦成合併)で、山之郷字辻にあり、敷地は借地であるが、校舎は明治一九年の新築である。今一つは篤信小学校(山根校改称)で長柄山に分校をおいた。農家を借りて校舎に充てたので、教室に適せず、その上二校とも単級学校で(全校一学級編成)、数十人の補習科の生徒も通学したため、全くのすし詰め学級で、授業にも支障を来たすことが多かったと云う。
教科書は、主として、日本読本巻一―六を使用したが、第三巻以上はむつかしくて生徒の学力では理解できなかったという。教科書は、学校に備付け、貧困のものに貸し与えていた。
学令は以前から満六才ときめられていたが、昔からの慣習で「紐解」を経ないと入学をしなかったので、六才入学は非常に少く、就学率は、学令児童の半数にも達せず、明治二五年度で、学令児童数男二四一、女一九四の中、就学は、僅かに男一〇五、女二三といった状態で「就学ノ普及未ダ旧習ヲ免レズ」の感があった。不就学の原因は、貧困と疾病となっているが、経済的負担が主な原因になっていたのではなかろうかと思われる。
学校の経費であるが明治二〇年五月「聯合教育徴収台帳」によると、二五九円二三銭六厘を味庄村外一一か村から、資産に応じて取立て、これと生徒の授業料でまかなった。村費が四〇八円二六銭一厘であったので、その六三%に当る大へんな金額であった。