いつの時代にも、学校を統合するという時にはさまざまな困難が伴うものである。本校の合併のいきさつについては、沿革誌に詳しく述べられているが、重要な点を記してみよう。当時「就学児童が年毎ニ倍増シ、校舎ガ不備ノ為、尋常科卒業生ハ高等科ニ入学スルコトガ出来ズ、補習科ヲオイテ既習ノ学科ヲ温習スルダケデ、ソレサヘ一、二年デ退学サセラレテイタ」状態であった。この現状をみて、何とかしなくてはならぬと立上ったのは、進修、篤信二校の教員であったという。村長を始め村有力者を歴訪し、学校統合と高等科設置の必要を説いて廻った結果、明治二五年四月二五日に至り、学校統合の協議会が結成された。その後数回の協議を重ねた結果、一二区の中、長柄山と皿木の外は合併に賛成したが、学校位置の問題で、(ア)山根区字内畑説(現学校位置)(イ)中休説 (ウ)位置は(ア)で追分に分校設置説の三説に分かれ、議論沸騰し、この三つの説を一つにまとめることは、殆んど不可能に近い情勢であった。これではならじと、木島茂雄、多賀要作両訓導は、同二五年五月三日、最後の協議会を要請した。この協議会の席上、両人は「交々立チテ、学校統合ノ必要ト内畑説の優レルコトヲ痛論シ」遂に一村一校の協議も漸く整ったということである。
その後、校舎の建築様式、坪数、費用概算等すべての立案計画を木島、多賀両氏に依嘱し統合は順調に進行した。校舎は、進修小学校を買うけ之に増築し、経費は七五〇円と積り、不足分を村内有志の寄附に仰ぐこととした。学校規模をみると、二学級編成で生徒数は、男八五、女一九で将来約七〇人の増加を見込み、敷地を九二八坪と定めた。明治二五年(一八九二)九月一日より敷地の地ならしにかゝったが、一二月一五日、地中から壺に入った壱厘銭古銭貨が一八〇一枚も堀出され、この地が、当時を去る数百年前の天台宗の古刹道脇寺の跡であったことを裏付けているように思われた。一二月六日上棟式を行い、義損金も総額九一〇円九五銭五厘(寄付者総数四百名)に及び、工事も急ピッチで進み、翌年五月一五日落成の運びとなった。落成式当日村民の喜びの様子を少しく記してみよう。
「此ノ日快晴、西南強風ナリシモ、生徒及ビ父兄ハ鶴首シテ待チ居タル事トテ払暁ヨリ来集シ、参観人ハ遠近ヨリ雲霞ノ如ク詰メカケサシモ広濶ナル構内ハ立錐ノ地ナキニ至レリ。……午前一一時三発ノ祝烽天ニ轟ク開校ノ式ヲ行フ。……当日式場ニ列セル者ハ、来賓多数ヲ始メ、役場職員、村会議員、区長、寄付者、生徒等、無慮七百余名ナリ。余興トシテ烟火、相撲、囃子等アリテ頗ル殷賑ナリ……」と。