明治二六年(一八九三)八月三〇日、設置認可され、一学級の単級学校として、小学校敷地内に、独立の学校として、一一月三日開校した。発足当時生徒数は、男五二名、女四名、学校経費は、一三一円四〇銭で一人月一五銭の授業料で大部分をまかなっていた。門標は、岡本監輔(励業学舎々長)が揮毫したという。その後生徒は年ごとに増加し、校舎施設が不足したので、建築費五百円をかけて校舎を増築し、明治三〇年完成をみた。
高等科の修業年限は四か年で、教科目は、修身、読書、作文、習字、算術、日本地理、理科、日本歴史、外国地理、図画となっているが、六〇人近くの学力の異る生徒を一人の教師が指導するのであるから、なかなか大へんなことで、生徒は、教科書が唯一の手がかりであった。明治二九年六月一一日、生徒の授業料が改正され、一年一四銭、二年一六銭、三年一八銭四年二〇銭、平均一人月一七銭となった。授業料は、学制以来学校の最も重要な財源で、明治一〇年「公立学校生徒受業料収入概則」が定められ、「受業料ハ生徒ガ教授ヲ受ケル酬労金デアル……」と定め、「授」でなく「受業料」としている。