明治二七年(一八九四)八月一日、清国に対し宣戦の詔勅がくだり、日清戦争が勃発したが、学校が直接協力したような記事は殆んどない。僅かに「同二八年一月二三日、故陸軍一等卒、高吉徳蔵の葬儀を国府里区広福寺で行い、職員生徒会葬、香花料三円五〇銭を寄進した。五月一五日、日清媾和談了。平和克復の祝賀会を開き、参加者一六〇余名、生徒一同に茶菓をくばる。五月一八日、茂原日新高等小学校に、長柄、上埴生二郡の有志生徒代表が集り、講和克復の祝意を表した。」こと位である。然し教育勅語や御真影に対する取扱がきびしくなり忠君愛国の精神の涵養ということが強化され、明治三〇年四月には、柏田盛文知事より、県下の教職員に対し、小学教員の重要性を力説し、ドイツに於けるビスマルクの例をひいて、その職責を全うすることに一層の努力を払うよう訓令が出されている。