7 御真影奉迎式

557 ~ 559 / 699ページ
両陛下の御真影が、学校に下賜されたのは、明治二三年頃からであるが、強制的なものではなく、申請によっていたので、学校により下賜年月日は異っていた。本校に下賜されたのは、明治三〇年(一八九七)四月二一日である。この奉迎は、今の時代には想像もつかないほどの物々しさで、天皇中心の教育の姿がよく表れているので、少しくその状況を記してみよう。
 (奉迎準備)
 四月一〇日に奉安所を完成させたが、職工は昼夜を分かたず工事に励んだという。一八日に奉迎の為に次のものを用意した。校旗一流、国旗一流、天竺木綿製、メリンス製二対、旗頭球大三個、小六個。その他の用具はすべて役場で調整。別に平野新蔵より国旗二流、平野茂太郎より緑門装飾花の寄付あり。一九日には人夫多数で緑門の装飾、校庭の手入をし、二〇日村長助役も来校し準備完了した。
 (奉迎並に奉迎式)
 当日午前七時に、職員生徒は学校に集合、役場職員、村会議員、各区長及組長、在郷兵士有志者は、役場に集合し、午前八時に奉迎旗、校旗、国旗を朝風にひるがえし、整正隊伍をくんで郡役所に向って出発した。
 午前一〇時到着、一同は昼食をとって正午拝戴式を行った。一同最敬礼を行ってから、両陛下の御真影を唐櫃に移し奉り、高等科卒業生数名(木村新次郎、山岸邦司、若菜治作、山崎滝華、大和久淳作)が逓番に之をかづいた。そして先頭に長柄山駐在所巡査、櫃の両側に村民岡本豊三と多賀要作訓導の二人が付き、後には郡長行方豊太郎郡書記大木寅之助、在郷兵士、村吏、生徒の順に並んで、郡役所の表門から、本町通町高師押日を通って国府関に着いたのは午後一時二〇分であった。原田では、二宮本郷村長糸久新造や東陽校の職員生徒の奉迎をうけ、真名区新町には本校の尋常一、二年生が出迎えていた。一時三〇分、行列が国府里字一の橋に入ると祝の花火が打上げられ、以後間断なく空中に轟発して祝意を表したと記されている。見物人も「老若男女コノ盛典ヲ拝セントシテ四方ヨリ群集シ、国府里ヨリ学校マデ殆ンド立錐ノ地ナシ」といわれる程であった。
 御影は午後二時に無事到着したので、一旦宮殿に奉安し、しばらく休憩の後、午後三時より奉迎式を行った。




一、両陛下御尊影ヲ宮殿ニ奉安ス
二、式場装置(此際休憩)
三、生徒着席
四、学校長教員町村民来賓着席
五、学校長(又ハ首席訓導)進ミテ天皇陛下
  皇后陛下ノ御影ノ帷帳ラ奉開シ数歩退キテ
  天皇陛下
  皇后陛下ノ万才ヲ祝シ奉ルノ辞ヲ述ブ此際一同最敬礼
六、学校長教員生徒一同君ケ代合唱
七、学校長教育勅語奉読(一同最敬礼)
八、来賓演舌祝辞
九、学校長(又ハ首席訓導)進ミテ
  天皇陛下
  皇后陛下御影ノ帷帳ヲ奉閉ス此際一同最敬礼
一〇 来賓学校長其他退席
一一、生徒退席
          (以上)

 以後、御真影は奉安所に安置、朝夕又は儀式毎に生徒に拝礼させ、学校教育における中心的存在となった。