学制発布当初から、県は小学校規則を頒布する毎に、必ず「生徒心得」を定め、これを管下教員に配布して、生徒のしつけの指針とした。最初のものは明治七年であるが、それをみると、ほめるより罰する教育が中心となっていたように思われる。「教鞭をとる」という言葉も、そんなところにあるようである。もっとも、一学級六・七十人の子どもを一人の教師が指導するのであってみれば、その苦労も察せられよう。本校では、明治二五年(一八九二)一二月一日、生徒罰則を定め、一七日に認可されたが、罰の内容は、三段階になっていて、一番軽いものが戒諭(ねんごろに諭す)次が課題(遊びを制限し、仕事をさせる)、重いものが留置(放課後教室に残す)である。然し当時でも、子どもに罰を加えるには、常に細心の注意が払われていたことは、云う迄もない。