沿革誌をみると「明治三三年一二月四日、高等科ニテ研究会ヲ行フ。茂原小、日新高等小、薫風小、東陽小ノ職員来校、午後三時閉会スル」とあり、この頃研究会が盛んに行なわれるようになったことがわかる。ところで学校に於ける学習指導法や学級経営の研究は、明治二〇年代に学校単独で行なわれていたようであるが、他校を参観して共同研修を行うようになったのは、本郡では、明治三一年(一八九八)四月四日「小学校管理及び教授法研究会概則」が通達されてからで、その二条の「研究方法ハ、学校組合ヲ設ケ、毎月一回順次組合学校ヲ会場ニ充テ、其ノ管理及教授ヲ見、以テ相互批評ヲ加ヘ、教育ノ改良上進ヲ期スルモノトスル」となっていることに基づくのである。然しこのような研究会も、明治四三年頃「休日以外ニ行フノハ適当デナイ」という廃止通知が出され次第に衰えをみせていった。今から考えると誠におかしいと思うのであるが、当時は、教員数も少く、労働基準法などというものは考えられない時代のことであるので、当然なことであったわけであろう。