13 試験から考査へ

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学制発布以来、生徒の進級は厳重な試験によってきめられ、その成績は、優等、合格、落第の三段階に分けて公表されたので、子どもにとっては、全く試験地獄の感があった。明治二六年三月二日の記録によると、「元進修校定期試業ヲ上野妙典寺仮校舎ニ於テ執行。立合人ハ元篤信校及ビ東陽校職員、岡本豊三助役ナリ。午後四時完了。優等者八名ニ賞状ト賞品、合格者ニハ合格証書ヲ与フ。不合格ハ男六一名中一〇名、女一〇名中一名ナリ」と。その後試験制度は、次第に改められ、成績考査と呼ぶようになった。「明治三六年(一九〇三)三月二六日、成績考査終了ニ付、尋常・高等各四学年ニ卒業証書ヲ授与シ、優等者ニ賞状ヲ授ケタ。」とあるが、この頃は、まだ定期試験の色がつよい。然し、明治三七年一二月六日、郡役所から成績考査法の準則が示されると早速学校でも、成績考査規則を定め、翌年三月九日より実施した。主な改正は、従来の十点法を甲乙丙丁の評語としたこと、「教授ヤ訓練ノ進行中成績ヲ考査スル」よう改めたことなどである。この頃(明治三六年一一月二〇日)特別学級の実施状況を報告した記録がある。当時の特別学級は、現在の特殊学級とは異り、家庭の事情で普通学級の子どもと同様に出席できない子どものために、明治三五年から県下に開設を促したもので、長生郡内には十一校に開設されていたということである、本校の情況は、①児童数女七名、②構成は甲乙二組とし、素養あるものを甲とする、③教育方法、各人別の教授とし、国語三時間修身二時間算術一時間、④成果 おおむね進歩良好、父兄の感情良好であったという。これは別名子守級ともいった。