大正期に入り教育施設も次第に充実し、林太一校長の教育は、県下の注目をひいた。大正七年(一九一八)十二月三日、学校教育状況視察のため、次のような人々の来校があった。県視学岩瀬甚蔵、海上郡視学川名貞次郎、誉田小学校長元吉亮、馬橋小学校長諸田五十五郎、六合小学校長斎藤胤三、北佐原小学校長橋本秀五郎、豊岡小学校長八田真一、東陽小学校長石井常次郎、郡視学橋本正などである。
大正一二年(一九二三)大和久祐久校長は、農村地域に即した教育に力を入れ、尋六以上には、各児童一坪農園をもち、栽培した農作物で、農業品評会を行ったり、勤倹貯蓄の精神と地方の陋習改善に力を用いている。
大正十三年。学制発布五十周年を記念して、校舎改築の計画をたてた。十二月十七日、村会可決。予算一万二千七百五円を計上。別に寄付募集一四二円九八銭五厘を集める。工事は、安房郡鴨川町川名弥助落札、一万一千七百五十円であった。建物は、木造平屋建浅野式スレート葺、建坪百二四坪であった。本工事中最も困ったことは、土地が高台にあり、道路が悪く、材料運搬が全く思うにまかせず、落成の日が心配されたが、請負者の責任ある努力の結果予定より一日おくれた大正十四年四月二一日祝賀の式をあげることができたという。六月十日、始めて「時の記念日」定まり、当日午前六時職員児童校庭に集合、時刻を正しく守る実習をした。