1徳増小学校

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この学校は、明治六年(一八七三)一月一五日、鴇谷、小榎本、長富、榎本、桜谷、力丸、徳増の七村が聯合して、木更津県令柴原和に届を出して、円覚寺(徳増村)を仮校舎にして開いたものである。「開校届書」によると、七村で戸数三百四十九軒、人口は千五百七一人中、学令児童(六才―十三才)数は、男九八女九一人であった。教師には鏡蔵寺住職田中了広と樋口唯一の二人を雇い、円覚寺二四坪を教室に充てることにした。鴇谷村戸長加藤金平外平川茂平、小出三郎平、前田正作、鹿間庄作、小倉忠蔵、鈴木甚六の各戸長及徳増区長平川信太郎が連署している。
 その後鴇谷村だけで、独立校をつくったが、明治八年には合併した。当時の教師は、田中了広、桜谷の医師鹿間秀悦で、その後神明久作、杉森蘭次郎、稲葉栄、久我尊精などの名前が記されている。中でも、田中了広は、鏡蔵寺跡の墓碑によると、江戸の伊沢政義の二男で広三郎といゝ、昌平黌で詩文を学びりっぱな力をもっていた。慶応二年平川氏を頼って徳増に居住し、藻原寺東光院で薙髪了広と改名、徳増校の教師となり晩年は藻原寺中教院の教頭にまでなり優れた人物であったという。明治十三年に再び鴇谷村が分離し、その後力丸村も分れ、五か村の学校として明治三九年まで続くのである。