その後鴇谷村だけで、独立校をつくったが、明治八年には合併した。当時の教師は、田中了広、桜谷の医師鹿間秀悦で、その後神明久作、杉森蘭次郎、稲葉栄、久我尊精などの名前が記されている。中でも、田中了広は、鏡蔵寺跡の墓碑によると、江戸の伊沢政義の二男で広三郎といゝ、昌平黌で詩文を学びりっぱな力をもっていた。慶応二年平川氏を頼って徳増に居住し、藻原寺東光院で薙髪了広と改名、徳増校の教師となり晩年は藻原寺中教院の教頭にまでなり優れた人物であったという。明治十三年に再び鴇谷村が分離し、その後力丸村も分れ、五か村の学校として明治三九年まで続くのである。