鴇谷村は、最初徳増学校に賛成したのであるが、明治六年三月、一村だけで妙泉寺を仮校舎として学校の設立を取きめている。届書によると、戸長加藤金平、村田惇三・三橋庄蔵と元学区取締常泉文三の連署で、校舎は妙泉寺とし、米二石を積立て学資とすることにした。当時戸数百五軒人口四百三〇人となっている。これによって、直に開校されたか否かは明かでないが、沿革誌によると、明治七年(一八七四)には「鴇谷村妙泉寺住職久我尊精徳増村鏡蔵寺住職田中了広相続キ、鴇谷村神照寺院ニ於テ教授セリ」とあるので、神照寺にも一時鴇谷校があったことが知られよう。その後明治八年六月徳増校に合併したが、明治十三年四月再び独立した。
同年四月十日郡長に出した設立願をみると、鴇谷村惣代松崎清平、立鳥村惣代三橋太平、針ケ谷村惣代小倉喜代治郎と学校事務係鶴岡金重郎、聯合戸長石井喜惣治の連署で、鴇谷村花井仙蔵宅を校舎として、鶴舞村士族加賀安宅を教授にして学校設立を計画、四月二三日に許可されている。
学令児童は男子六九人女子五一人であったが、就学者は男子五〇女子二人であった。一ケ月の学費は、拾円八十銭で教員給料六円八十銭書籍器械料が一円四銭、借家賃が二十五銭等であり、このため、学資金千円を積立て月十円の利子を得授業料一人一銭五厘三毛で八十銭をとって賄っている。明治十五年六月廿五日には、三村の住民は一致協力して、学校の新築をきめ、棚毛村(現長南町棚毛)大泉寺という古屋を六六円で買うけ、建築費(大工、左官、屋根屋等)百二九円七三銭八厘をかけ、立派な鴇谷小学校をたてたのである。これは後の日吉村役場の建物に使用している。勿論費用は三村ですべて支出した。