徳増、鴇谷二校の学校経費はすべて学区民の負担であったので、その拠出に苦心の跡がうかがえる。明治八年十二月、小榎本村では、徳増校の学資金を積立てるため、村民一同協議したところ、「民費多端之際」でとても現金を積立てることは困難であるので、村共有の田畑一反三畝十三歩を売払い、その代金二八円を学資金に積立て、それから上る利子で経費を拠出する方法をとったのである。学区内集金というのは、学区民の財産に応じた割当寄付で、云わゞ教育税のようなものである。学資金と云うのは、学校基本財産にあたるもので、一定の現金を積立てておき、それから上る利子を経費にあてるものと、田畑山林などの不動産をもち、これからあがる利益でまかなうものとがあった。明治十三年(一八八〇)設立の鴇谷校でも「学資金千円、此ノ預リ利子一ケ月拾円」を拠出している。もっともこんな大金をすぐ現金で積立てることは困難であったので、各人が寄付すべき金額を借りる形にして、月々その利息を払ってゆくと云う方法がとられたようである。このように、学校経費を、授業料や学区民の負担にしたことが就学率の向上に大きな妨となっていたが、義務教育を無償とするなどということは、当時ではとても考えられないことであった。