小学校の修業年限が尋常科四年、高等科四年に延長されたのは、明治一九年のことで、それ以前は、初等科三年、中等科三年、高等科二年であった。その上、教育をうけさせるのは親の義務であるとされた。然し、徳増、鴇谷二校が四年制になったのは、明治二六年(一八九三)二月一八日からのことである。即ち、二校は、同二五年一二月二〇日、藤島正健知事に対し、村会の議をへて、「尋常科ノ修業年限ヲ四年トスルコト」「教科目中体操ノ一科ヲ除クコト」の許可願を出し許可を得た。体操を除く理由については「平素の運動で十分であり体操などやると、他の学科の進歩の妨げになる心配がある。」というわけである。当時小学校の教科目は「修身、読書、作文、習字、算術、体操」で、図画と唱歌は土地の状況でやらなくてもよいことになっていて、体操は当然行うべき教科であったのである。その後体操を正課にしたのは、明治三一年二月一五日からであった。