明治二四年(一八九一)一一月一七日の文部省令で、一人の先生の受持つ学級の児童数がきまったので、各学校は、これに合わせて、規模をきめることにした。その規準をみると、「全校児童数が七〇人未満の時は、一学級とする。七〇人から一四〇人までは二学級とするが、七〇人以上百人未満ならば一学級にしてもよい」とあり、現在一学級四五人までとしていることとくらべると隔世の感がある。また、一学級の学校を単級学校、二学級以上の学校を多級学校と呼び、校長は三学級以上の学校でないとおかなかった。徳増と鴇谷の二校は、共に一学級編成の生徒数であったので、明治二五年四月、単級学校に編成した。その後児童数も増したので、明治三五年二月一〇日、両校とも二学級編成となり、第一学級(一、二学年)第二学級(三、四学年)とした。以後教育内容も次第に充実されてゆくのである。