明治二七年(一八九四)一二月二一日、学校と家庭との連絡を図る為、二校で周到な協議を重ね、りっぱな家庭通信の印刷物を各家庭に配布している。通信文によると、前文で「子弟ヲ教育スルニハ、家庭ニテ深ク注意スル」ことが大切で、「家庭ノ御注意学校ニテ教フル事トナルベク違ヒ離ルルコトナキ様」にすることが大切であるとし、十四項目に亘って家庭における子どもの躾や勉強、遊び、礼儀作法、手伝いなどについて詳細に注意を促している。悪しき遊びの項をみると、戦前のものと大してちがっていない。入学は「なるべく四月一日」にしたいとしているなど当時の有様もよくわかるので参考になる。
また「明治三一年七月以降家庭訪問ヲナス」と記され、訪問の際の調査する要項が十数項に亘って示されている。即ち「(一)最モ嗜好スル遊戯 (二)平素実懇ナル友人ノ氏名 (三)習慣上ノ善悪ニ付テノ意見 (四)家庭ニ於テ最モ感化シ居ル者ハ誰カ (五)在家中担任事業ノ有無 (六)起ル時刻ノ規律 (七)最モ嗜好スル学科目 (八)特ニ子弟ニ忠告ヲ受クベキ件 (九)父母兄弟ノ嗜好スルモノ (十)欠席ノ不利益ナル次第 (十一)昇校帰宅ノ時刻 (十二)文房具ハ可成的現品ヲ以テシ金銭ヲ与ヘザルコト (十三)言語練習及生徒ノ責任 (十四)家庭訓練上ノ方法」等で、当時の家庭教育の実情も伺うことができる。
明治三八年一月八日、鴇谷校では、父兄会を開いて学校の施設々備充実の協力をよびかけた。当日は、「出席スル者五十有余。午後一時一同着席。平野校長ハ父兄ニ向ツテ学校トシテノ事業即チ授業管理訓練等総テノ事ヨリ学校ト家庭ノ連絡ガ最大必要ナルコトヲ述ベ、次ニ増田村長、父兄今関竹治郎、高根尋常高等小学校長大田弥三郎等ノ談話アリ。終ツテ茶話会ヲ開キ、其席ニ於テ父兄一同申シ合セ、傘五十本ヲ寄付セントシ、其寄付金ノ集メ方ヲ委員ニ託シ散開セリ」と。その後加藤、山越両学務委員と三橋立鳥区長と相談の結果一五円の寄付募集の計画をたて、傘は与川商店に注文した。ところが寄付金は二三円二六銭と意外に多く集ったので、傘代五〇本、一四円七五銭の残金で度量衡及地球儀を購入した。
一方徳増校でも、明治三五年三月、五区有志者より寄付を募集し傘四五本を購入することにした。募金の結果、榎本六円二〇銭小榎本二円一八銭徳増八円長富一円八四銭桜谷六円三一銭計二四円五三銭となったので、傘代一五円七五銭、残り五円二〇銭で手風琴壱個を購入した。この傘は、戦前では随分大切に使用されていたが、戦後は洋傘に変っている。PTA活動の前身とも云えよう。