明治三四年七月一日より「子守教育を実行した」子守は九人であった。子守教育というのは「子守や被雇者などで、普通の学令児童と同様に就学できない子どものための特別教育」のことである。明治二〇年頃から行なわれていたが、明治三二年、師範学校教諭小池民次が、長野市の子守教育状況を千葉教育雑誌に発表してから関心が高まり、県でも同三五年から通牒を出して奨励しはじめたので、徳増校でいち早く取上げたことは卓見である。記録をみると「コレニ要スル費用ハ有志者ノ寄付ニテ、徳増区平川トラ子ヨリ紙製石盤一ダース、同区宍倉一郎ヨリ金壱円ヲ寄贈セラル、且受恵筒ヲ以テ、此件社会ニ訴ヘシニ金二一銭六厘ノ義損アリ」とあるので、篤志寄付でまかなっていたことが伺える。明治三六年、県の調査(8)によると、「本郡の子守教育実施校一一。生徒数七六人、週授業時数二一二。欠席多く授業不規則ナリ」と出ている。