11大正のころ

573 ~ 574 / 699ページ
大正期の始めは、子ども中心の教育が行なわれたが、後期から昭和にかけ次第に国家主義的教育が強められた。その主なものは、祝祭日や記念日の重視、儀式等国家的行事の偏重がそれである。大正五年四月四日には、「職員児童ハ、毎朝御影ニ対シテ敬礼スルコト」を職員会で決め、運動会は一〇月三〇日の天長節に実施した。遠足は殆んど名の示すごとく徒歩であったが、次第に汽車を用いるようになって、修学旅行という言葉になる。大正五年五月五日、尋四以上百七十名職員七名で一宮方面に修学旅行。校医、村有志父兄参加、六時出発、一宮―茂原間は汽車を利用、午後六時帰校。
 大正七年十一月二三日、尋五以上希望者八六名、千葉町に修学旅行。県庁―師範学校―病院―畜産試験場―亥ノ鼻台―千葉神社見学。午前六時四分茂原駅より汽車利用、午後五時着。全職員、小倉校医、尾高学務委員で引卒す。
 本校のJRC(少年赤十字団)の活動は極めて優れたものであるが、その歴史は、大正の頃から始っている。大正一五年(一九二六)一二月二四日、「児童ヨリナル赤十字少年団ノ発団式ヲ挙行、赤十字千葉支部長代理、村長他有志多数参列。昭和二年三月五日、総会開催、鈴木平、西村文則、橘木朝太郎の講演アリ」と記されている。
 以後一時中断したが、昭和二九年五月二四日、青少年赤十字団登録式を行い活動が盛んとなっている。
 子どもの健康診断については、大正の頃感冒の予防「ワクチン」を注射していた。本校の記録では、大正八年一月三〇、三一日「校医小倉義男来校、流行性感冒予防ノ為「ワクチン」ノ注射ヲナス。但シ保護者ヨリ、承諾証ヲ取ル、尋三以上高等学科マデ」尚、流行性感冒流行ノ傾向アルタメ二月六日ヨリ六日間臨時休校トスル」。これ以後翌年も行い「成績良好」であったという。