本校の開校については、内藤家文書によると、次のように記されている。「明治六年、千葉県下第七大区十二小区上総国長柄郡刑部駅慈眼寺邸舎ヲ以テ第一大区二十三番中学区二、三、六番第二番小学区ト定メ、校費一ケ月金拾円ヲ備ヘ、読書並ニ習字科内藤三郎平、算術科小川良本等教員トナリ此年十二月十七日開業式ヲ行ヘリ、谷藤久五郎ヲ以テ、校ノ会計其ノ他雑事ヲ担当セシム。此月生徒人員ヲ調査スルニ合計男四五人。」とある。当時、学校設立には、先づ仮校舎の書上書や、設立伺書を知事に提出し、教員採用の見通しや経費を明かにして、始めて認可指令が出され、設立の運びとなったのである。刑部学校の学区は、刑部村の外田代村、金谷村、針ケ谷村、立鳥村の五か村で、学令児童は、男九三人女九〇人であった。明治七年九月の就学児童は、下等小学六級男四人七級男一五人、八級男三四人女五人計男五三人女五人となっていて、勿論上等小学在学はいない。学校経費は、明治六年一二月、区内集金により二〇円を集めたが、二一円一二銭五厘の支出となったので、明治七年には、年一六〇円を見込み、二百円を集金することにしたという。