児童の就学年令は、六才から一三才までで、入学を希望する者は、入学願書を学校に提出した。当時の学年は、その年の一月に始まり一二月で終るようになっていて、学令に達すると、月始めに入学ができたようである。従って、教育の状況も極めて貧弱で、明治七年八月、千葉県庁より、一五等出仕織田知風、学区取締鎌田治兵衛の監視をうけた時は「此際今ヲ以テ之ヲ観レバ、旧習ニ汚染シ、図書機械完全ナラズ、生徒人員合計男五四人、読書ハ単語編、算術ハ加減乗除ニ止リ、校ノ景況私塾ノ陋習ヲ免レズ」との評があったと沿革誌に記してある。
教員採用は、村で申請し、県の試験に合格すれば、すぐ採用ができたが、明治一一年(一八七八)から規則が変り、県の「教員雇入規約」に基き、教員が学区内戸長と「条約書」に連署し、知事の認可をうることとなった。内藤三郎平は、明治一二年四月、刑部村戸長村上久女次郎外四名と条約を結んでいる。
学校の監督は、地方長官の任命する学区取締と一等小学校の教員が当っていた。当時小学校は、学区の大きさによって、一、二、三等と等級をつけた。刑部校は二等小学校であった。明治八年四月二四日、学区取締、平川信太郎、八木原五左衛門監視、学資金積立及び機械器具を調整すべきことを説諭し、同年一等小学校訓導吉野城雄巡視すとある。この年九月には、六、七才の子どもの通学の便を考え立鳥に附属校(分校)をおいたという。