6水上尋常高等小学校の設置

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明治四一年(一九〇八)義務教育が六か年に延長されたので、同年三月の村会で、① 刑部、高山両尋常小学校の補習科を廃止し、② 刑部小学校に、第五、六学年をおき、その分教場として大津倉の泉光院を借上げることにきめた。当時児童数は、学令児童三七九名中三六六名に達していた。その後、同年三月二三日、長生郡長渡辺勤より、村に対し、二校の合併促進状況の問い合わせがあったので、再び村会を開き、次の決議を行った。「① 刑部、高山両校を合併し、之に高等科を併置する。② 位置は水上村大津倉字稲ケ谷二四八番ノ二(山林六畝三歩外一八筆、計一五三八坪)とする。③ 土地買収価格は、一反歩に付水田二百円、畑百円、山林三〇円とする」そして必要な手続をとり、七月一〇日、両校合併、八月三一日高等科併置し、水上尋常高等小学校と改めた。職員は、校長大田弥三郎、訓導平野金弥、同佐久間哲郎、同鵜沢周平、同石井一郎、代用教員長島てい、同島野敬一であった。
 合併当初は、校舎もないので、五、六年と高等科は、泉光院で授業を行った。一方校舎建築をすゝめたが、村予算も十分でなかったため、不足は寄付にたよる外なかった。大正元年(一九一二)一一月一日の寄付募集趣意書をみると「予算六千円ヲ以テ校舎新築ノ設計ヲ立テ、着々竣成スルト雖モ、尚附属舎増築予算額ニ於テ、一千円以上ノ不足ヲ生ジ…他ニ財源ナキヲ以テ、応分ノ御寄付アランコトヲ切望ス」となっている。幸い、一三五〇円の寄付を得、大正二年一〇月落成をみたのである。
 明治四二年三月十五日、県より送付の問題で、第六学年に、国語、算術二科目の一斉試験を行い成績は、平均点で、国語五六点、算術四二点であった。一斉テストの最初であろう。同年二月二〇日に第一回の学芸会を行う。