11学童疎開受入れ

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昭和十九年、戦局がいよいよ不利になった六月末、政府は「国民学校初等科児童ノ疎開ヲ強度ニ促進スルコト」を閣議決定した。これにもとづいて学童疎開は、まず縁故先への疎開を勧奨し、縁故のない者に対して集団疎開の方法をとった。対象は国民学校初等科三年以上六年までの児童で、保護者の申請あるものとした。区域では、最初は東京都のみであったが、後に横浜、川崎、横須賀、大阪、尼ケ崎、名古屋、神戸、門司、小倉、戸畑、若松、八幡の十三都市約四十万人に適用された。疎開児童は、一学寮(宿舎)当り、百人を単位にし、二学級編成で、訓導二人、寮母四人、作業員二人、寮務嘱託三人、医師一人を配属することが標準であったが、実情は、前表の通りであった。
疎開状況(双葉国民学校)
疎開状況(双葉国民学校)
受入町村学 寮教員数学 年児童数備   考
茂原町藻原寺初三女
初五女
一〇〇地元学校の協力
二宮本郷村如意輪寺初三男一〇〇村民食糧調達に協力
同右本源寺〃三男
日吉村円寿寺〃五女三〇地元民の協力
同右円覚寺教員一
寮母二
〃五男四〇同右、特に平川秀夫氏協力あり
水上村大正旅館〃六女四五区長今井氏を中心に献身的に協力
豊栄村称念寺〃六女三〇区長中心に野菜等供出
長南町長福寿寺教員二
寮母二
〃六男九八
鶴枝村安楽寺〃四女四〇
東 村芝原分校〃四男四〇
瑞沢村常徳寺〃四男三五

 本郡には、昭和一九年八月、東京、本所双葉国民学校児童約五百名が、一六名の職員に引卒され、一一学寮に分かれて疎開した。その内容は前表の通りである。本町では、水上と日吉に疎開している。記録によれば「同八月二十六日、初等六年高等科生徒、職員全員、村民、学務委員、婦人会、常会長等疎開児童を笠森停留場に出迎へ、歓迎会を催す。引卒訓導野口政義」とある。この児童は翌年三月五日、進学のため東京に帰ったが、たまたま十日の大空襲により、殆んど死亡したということである。一方日吉に疎開した児童も同様であった。たまたま現助役酒巻政雄氏は、当時日吉部落役員に関係をもっていたので、疎開児童の受入れ、食糧の調達等には献身的に協力された。同氏の談によれば、氏が応召になった時、疎開児童全員が国旗によせ書きをし、武運長久を祈ってくれたその国旗は今も同氏の宅に保存されているとのことである。疎開児童の中には、兄が円覚寺、妹が藻原寺と分れている者もあった。戦局は愈々激しさを加え子どもはいつ帰れるかわからぬ状態であった。その子供達の大部分も、やはり故郷へ帰ると同時に、大半は死亡したわけで、誠にいたましい限りであった。