疎開状況(双葉国民学校)
疎開状況(双葉国民学校) |
受入町村 | 学 寮 | 教員数 | 学 年 | 児童数 | 備 考 |
茂原町 | 藻原寺 | 三 | 初三女 初五女 | 一〇〇 | 地元学校の協力 |
二宮本郷村 | 如意輪寺 | 三 | 初三男 | 一〇〇 | 村民食糧調達に協力 |
同右 | 本源寺 | 〃三男 | |||
日吉村 | 円寿寺 | 一 | 〃五女 | 三〇 | 地元民の協力 |
同右 | 円覚寺 | 教員一 寮母二 | 〃五男 | 四〇 | 同右、特に平川秀夫氏協力あり |
水上村 | 大正旅館 | 一 | 〃六女 | 四五 | 区長今井氏を中心に献身的に協力 |
豊栄村 | 称念寺 | 一 | 〃六女 | 三〇 | 区長中心に野菜等供出 |
長南町 | 長福寿寺 | 教員二 寮母二 | 〃六男 | 九八 | |
鶴枝村 | 安楽寺 | 二 | 〃四女 | 四〇 | |
東 村 | 芝原分校 | 一 | 〃四男 | 四〇 | |
瑞沢村 | 常徳寺 | 三 | 〃四男 | 三五 |
本郡には、昭和一九年八月、東京、本所双葉国民学校児童約五百名が、一六名の職員に引卒され、一一学寮に分かれて疎開した。その内容は前表の通りである。本町では、水上と日吉に疎開している。記録によれば「同八月二十六日、初等六年高等科生徒、職員全員、村民、学務委員、婦人会、常会長等疎開児童を笠森停留場に出迎へ、歓迎会を催す。引卒訓導野口政義」とある。この児童は翌年三月五日、進学のため東京に帰ったが、たまたま十日の大空襲により、殆んど死亡したということである。一方日吉に疎開した児童も同様であった。たまたま現助役酒巻政雄氏は、当時日吉部落役員に関係をもっていたので、疎開児童の受入れ、食糧の調達等には献身的に協力された。同氏の談によれば、氏が応召になった時、疎開児童全員が国旗によせ書きをし、武運長久を祈ってくれたその国旗は今も同氏の宅に保存されているとのことである。疎開児童の中には、兄が円覚寺、妹が藻原寺と分れている者もあった。戦局は愈々激しさを加え子どもはいつ帰れるかわからぬ状態であった。その子供達の大部分も、やはり故郷へ帰ると同時に、大半は死亡したわけで、誠にいたましい限りであった。