[戦争と郷土]

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 明治六年(一八七三)徴兵令の発布以後、満二〇才に達した男子はすべて兵籍に編入され、毎年徴兵検査が行われるようになった。国民皆兵の制度がこれである。東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本の六鎮台が置かれたが、千葉県では同年一月九日に佐倉に東京鎮台の第二師管本営がおかれ、木更津・水戸・宇都宮に分営がおかれ、翌年五月に佐倉に歩兵第二連隊第一大隊を置き、連隊本部が設けられた。郷土の壮丁は以後、主として佐倉に入営訓練を受くるものが多かった。
 日本の近代の発展と歴史はある面から見れば戦争の歴史とも考えられるほどで、国内の戦争は明治一〇年の西南の役を最後として、以後はすべて対外的な戦いであった。日清・日露・第一次世界大戦の際の青島攻撃、満州事変に続く、日支事変、あるいは大東亜戦争と当時よばれていた第二次の世界大戦である太平洋戦争などは、多くの国民の血を流して続けられた。この郷土においても付表のごとく、西南の役の従軍者に一名の尊い犠牲者を出したのを始め、以後の各戦役に従軍したその中で三五〇名を越える若者が、遠く酷寒の満州の地に、あるいは炎熱の南方各地に散華したのである。
 みな国家の運命をきりひらく礎となることを信じて、家族を顧みず、父母妻子をのこして、このなつかしい郷土をあとにして、再び帰らなかったことを思うと、まことに感慨無量のものがある。幸に生を得て帰還することの出来たものも、青春の大切な時期を国家の為に捧げ、困難な環境に健康を害するものも多く、近代日本の華やかな進展の蔭に、私たちはこれら尊い犠牲のあったことを忘れてはならないのである。しかしそれらの委細がいま統計的に明確になし難い点が多い。幸いにこの郷土は直接の戦場とはならなかったのであるが、昭和二〇年八月一五日の終戦直後、軍事関係の文書類がすべて廃棄されたのみならず、昭和二〇年五月二五日、榎本に撃墜されたアメリカ軍のB二九の乗員の処分に関連して、戦後、戦争犯罪の調査が米軍の手できびしく行われた為、役場保存のほとんどの文書が、この事件に関連の有無にかかわらず焼却せられたことが原因しているのである。これは重要な事件でもあったので、ここで説明しておきたい。