茂原事件

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この戦争終結直後の私たちに強い衝動を与えたB二九撃墜事件は普通茂原事件とよばれ、内地における航空機関係の戦争犯罪者処刑の第一号を出したものとして著名であるが、その後の報道などでも、あるいは地名を誤るなどして必ずしも正確でない。その概略を記しておきたい。
 昭和二〇年五月二四日。この日の深更から翌日にかけてマリアナ基地を発進して東京を空襲したB二九はおよそ二五〇機といわれているが、そのうちの一機が帰途、榎本(旧日吉村)に撃墜された。普通、高射砲による被弾とされているが、誤りで、二五日の午前零時五〇分ごろ、徐々に高度を下げたB二九機は、針ケ谷・立鳥・鴇谷の上空をかすめるごとく飛来、轟然と榎本の耕地に墜落赤く夜空をそめて火煙が立ち上ったが、それに膚接して一機の日本軍の戦闘機が飛来、見届けるかのごとく上空を旋回して立ち去った。おそらくはこの戦闘機による撃墜と考えられる。地面に激突したB二九の巨体はバラバラに飛散して僅かに尾翼のみが形を残し、流れ出たガソリンが路傍の柿と柳の木にかかり燃え上り、闇の中に美しく炎が立ったという。
 当時、すぐ附近の約三〇〇米の長栄寺(天台宗)に駐屯していたのは満淵正明中尉(当時)を長とする第一挺身中隊であった。境野曹長が指揮班の兵を引きつれかけつけ、ややおくれて菊地重太郎見習士官が第三小隊の兵と共にかけつけ、現場から四名の死体と共に負傷者二名を見出した。他に針ケ谷附近で上空から落下傘で降下して二五日の朝捕虜となったもの五名。負傷者の一名は二五日朝死亡し、一名をのこして五名は午前中、茂原の憲兵隊に連行された。のこされた負傷した米兵一人は右足が折れ、左足に穴があき重傷であった。午後二時ごろ、中隊長は「長い間苦しむのはかわいそうだから楽にしてやれ」と境野曹長に命じ、曹長は庭前で意識のほとんどない米兵の首を落した。斬ったあとの死体は初年兵係の教官菊地見習士官が、初年兵の訓練として刺突させた後、すでに死亡していた六人の遺体と共に墓地に北向きに埋葬し、住職の大橋師が読経し、卒塔婆を建てた。首を斬られた負傷兵は爆撃手だったダーウイン・エムリー少尉二六才であったという。
 この部隊は北海道旭川第七師団第二七連隊で新設せられた部隊で、房総方面の第五二軍の指揮下に入り、五月二十四日、この地に着任した。すなわち着任した夜にこの事件に遭遇したのである。そしてこの夜の事件は、後にその責任者としての満淵正明中隊長の三十二才の若い生命をうばわれる事件となった。この部隊は七月に大東崎附近に移り、そこで終戦となり、解散し、満淵大尉(その後進級)は故郷の神社に帰り、もとからの神官として職に復帰した。間もなく翌昭和二一年一月下旬、満淵大尉は巣鴨に戦犯として拘引され、第八軍の横浜法廷でさばかれる事となった。裁判は四月四日にはじまり二〇回の公判が一九日まで続けられたが、問題は負傷者に医療を加えず、また死体に対し部下が非道なる兇行を加えたことを許容したという点にあり、武士道的な介錯であったか否かが争点であった。この裁判は横浜法廷におけるB・C級戦犯の裁判としては二六番目であり、B二九乗員に関するものとしては第一号の裁判であった。死に頻するものに対する介錯の是非、ひいては武士道についての論義となり、中村孝也博士(元東京大学教授)も武士道の情けについて論じて弁護にあたり、当時の加藤鴇夫村長も出廷して武士道の介錯を説いて弁護せられた。しかし四月二〇日に満淵正明、絞首刑、菊地重太郎二五年重労働の判決がくだり、九月五日、刑は執行せられた。
 当時、戦犯として裁判せられた軍人の中に、上官でありながら部下に責任を押しつけ、または罪をまぬかれる為に上官の命令と偽りの主張をするなかで、この満淵正明隊長のみは堂々と部下の罪を自己の責任として悪びれず引受けた点で、米軍側からも尊敬の目をもって見られたという。この事件およびその裁判の経過、態度や発言などは、作家岩川隆の『神を信ぜず―B・C級戦犯の墓碑銘―』(昭和五一年立風書房刊)の中で約一〇〇頁にわたってこまかく記されている。(ただし仮名を使用)その最後の状況を当時、教戒師をされていた花山信勝博士は『平和の発見』の中で次のごとく書かれている。
 「満淵正明元大尉は長身でいつもニコニコ笑っている青年だった。執行の日は独房でたえず海行かばと君が代を大きな声で歌っていた。三重県多度神社の神職で、神主の着る白衣を着て刑場へ行きたいと言っていたが、家からその荷がついたのはすでに刑の執行されたあとだった。仏間で、私が読経したあとで、大はらいののりとをあげた。それから海行かばと武蔵野の歌をよみ、最後の水をのみかわし、家の方角に向って礼をしてから「天皇陛下万才」を三唱した。――子ぼんのうで、二才の長男にあてて遺書をかき「目をとじると節子(妻)にだかれたお前の姿がうかぶ。じっと見つめていると、こんどはお前が急に青年になって現れる」とこんなことも記していた」(同書九四頁)
 この妻もその後、他へ再嫁し、遺児は母なきままに叔父の家で育ったが、京都大学へ進学後自殺してしまった。戦争が立派な人格をもつ主人を中心の平和な家庭をまきこんで破滅せしめた一つの例だが、この長柄町の一角に起きたひとつの事件の結末としてある悲しみと運命のきびしさを感じさせる。なおこの時、米兵の斬首に直接手を下した境野鷹義曹長は呼出しに応じ上京途中、急に車中で手相を見てもらった結果、逃亡を決意、北海道の山中で製材の仕事に従事、二二年六月日本の警察に逮捕され、二三年一月、軍事裁判を受け、十五日間の公判ののち、終身重労働の宣告を受け、十年の後、三四年に出所した。満淵大尉が命令したと明言してあったことが幸いしたのである。