この長柄町出身の歴史上著名なる人、あるいは社会に貢献せる人の一斑をここに紹介する。近世以前についてはほとんど証とすべき文献に乏しい。伝承の上では平安中期の学匠として著名な安然和尚があるいはこの長柄の地の道脇氏の出身とも伝えるがそれは「古代の長柄」において述べたごとくに不明というほかはない。なおいまひとつ中世のすぐれた学匠が刑部から出ていたのではないかと推測出来る資料がある。それは茨城県稲敷郡新利根村の天台宗逢善寺所蔵の「檀那門跡相承資」と題する文書のうち、康暦二年(一三八〇)の記録の中に、坂東の学者を記したところに、「上総国に刑部アザリ盛円也。盛円ハ稽古都鄙ニ肩ヲ並ベルナク、是モ世親菩薩ノ再誕ト申ス。倶舎、婆娑ノミニ非ズ、大般若ヲ暗ニ覚タリト申ス」とあり、刑部の阿闍梨盛円という名から、刑部出身者であることが推察され、当時上総の著名な学僧であったことが判るが、その他一切不明である。
この長柄の地に没した著名な人物としては長柄山に隠遁したと伝える千葉秀胤があるが、これも伝承の域を脱しないことは「中世の長柄」において述べたごとくである。また上総の守護であった上杉朝宗は明らかにこの地に歿し、長柄山の現眼蔵寺境内に墓がある筈である。(「中世の長柄」参照)その他近世になってもまた文献を欠き、ほとんど辿ることが出来ない。『漢学者伝記集成』によれば明治年間の漢学者、中村桜溪はその父が桜谷の出身だったらしい。桜渓の名も、先祖の出身地をとって号としたと見られる。名は忠誠、字は伯実。わかくして精敏で、古注学を倉田幽谷に学び文章を善くしたという。大正一〇年一二月、年七〇というが残念ながらその出身が、中村家であることを知るのみで、いずれの中村家であるか不詳である。
なお旧長柄村に属する地区は日蓮宗のなかでも、顕本法華宗の強力な地盤であり、したがってこの地からはその宗派の本山である京都の妙満寺の貫主となり管長となった人が多い。なお顕本法華宗とは日什(一三一四―一三九二)を派祖とし、京都妙満寺を総本山とする。明治九年より日蓮宗妙満寺派と称し、三一年顕本法華宗とはじめて公称し昭和一六年、日蓮宗・本門宗と合同して日蓮宗となり、昭和二一年再び独立して旧宗名を称した。本町の場合、日蓮宗となった後、再度独立の時、そのまま日蓮宗にのこった寺院が多いが、教学の面でも、歴史を考える時にもこの事を承知していなければならない。肖像を得た人は別にそれと共に紹介するが、それを得ることの出来なかった諸師のことを次に紹介したい。
心性院日章。上野・横山家の出身。船木・安楽寺、土気の本寿寺住職となった。のち推されて総本山妙満寺の第二三八世を継承し、在任中に慶応二年(一八六六)十月歿。山崎日暲。(後出)二五二世。板垣日映。船木・板垣家の出身。自房は宮谷(大網白里町)の本国寺。性剛快で人望を得、明治二一年貫主として二五五世に就任。廿九年管長再任。在任中に、顕本法華宗の公称を見とめられた。宗門改革の功労者。木村日保。秋葉日敬。(共に後出)二七八世および二九二世である。
また国府里出身に、日本画家、木島柳鴎が有名である。明治十三年一月、木島家の出身。本名は唯三郎、幼少のころから絵画に長じ、上京の後、島崎柳塢に学び、また松岡映丘に師事した。得意とするところは人物画であり、文展のころから入選をしている。昭和四三年二月八七才にて歿した。なお林天然翁の『長生郷土漫録』には鴇谷石川栄司(旧姓石井・徳増生)は千葉師範卒業後上京して教育関係の出版関係に活躍したことをあげ、山越長七(針ケ谷出身)は上京して博物標本及び理科学用機械の製作所を設け産をなし大正一三年没したことを述べている。その他次の如くである。出生年時順に掲示した。なお生存者はここにおさめられていない。