慶応三年(一八六七)一〇月一四日一五代将軍慶喜は将軍職を奉還した。慶喜に大政奉還を勧めたのは、前土佐藩主山内豊信(容堂)を中心とする公議政体派であった。公議政体(1)とは、天皇を元首とし、その下に諸侯と公卿の上院、藩士、平民らの下院を置き、公議政体で政策、法令を定め、徳川将軍を上院議長兼執政権者とし、有能な諸侯をもって政府を組織する。いわば、天皇制下の諸藩連邦をつくる、という構想である。それは、討幕派の矛先をかわすための苦肉の策であった。従って、慶喜や容堂らは、将軍職を返上しても徳川氏が諸侯の上に立って勢力を保てるものと期待していた。
しかし、慶喜が大政奉還を上奏した一〇月一四日には、既に討幕の密勅が薩長両藩に下されていた。幕府の財力、武力を徹底的にたたいておかない限り、真の新政は実現しないと考えていた討幕派にとっては、大政奉還は意に添わない事態であった。そこで、大政奉還の上奏を勅許するか否かで大論争が展開されたが、結極、翌一五日聴許され、討幕のことは沙汰止みとなった。政局は、公議政体派の思惑どおりに進むかに見えた。
一方、公卿の岩倉具視や薩摩藩の西郷吉之助、大久保一蔵らを中心とする討幕派は、徳川氏の辞官納地あるいは武力討伐の線で画策を続けていた。
慶応三年一二月九日、遂に王政復古の大号令が発せられた。「前略……自今、摂関(せっかん)幕府等廃絶、即今マズ仮リニ総裁・議定・参与ノ三職ヲ置カレ、万機(ばんき)ヲ行ワセラルべク、諸事神武創業ノ始ニ原(もと)ヅキ、搢紳(しんしん)・武弁(ぶべん)・堂上・地下(ちげ)ノ別ナク至当ノ公議ヲツクシ……後略」という基本方針が示された。即日、旧来の朝廷のいっさいの施政官職が廃され、新しい三職が任命された。新政権が誕生しても、公議政体派が期待したように慶喜には新政府のポストが与えられず、更に辞官・納地を命ずることが新三職会議で決定された。有名な一二月九日夜の小御所会議は、徳川慶喜が内大臣の官を辞して領地を返納し、忠誠を実証すべきであると主張する岩倉具視と、徳川内府は既に大政を奉還し、忠誠を実証したのであるから、ここに召して会議に参画させるべきであるとする山内容堂との激突であった。他の議定は、みな日和見主義であったから、西郷・大久保らが糸を引く岩倉の意見が紙一重の差で可決された。
辞官・納地の命を受けた慶喜は、老中たちと相談することを理由に猶予を乞い、朝廷の態度も軟化し、後日天下の公論により決定することとなった。
しかし、徳川氏の武力討伐を固執する西郷・大久保らは、何んとかして徳川軍と戦端を開き、朝敵に追い込もうと権謀術策をろうした。江戸市中において浪人を集め、擾乱を起こさせたのである。挑発された徳川家臣団は、一二月二五日の夜明け前、庄内藩兵を主力として三田の薩摩藩邸を焼き打ちした。朝廷では、公議政体派の努力で慶喜の政権復帰が目前に迫っていた。この時点で、薩摩藩邸焼き打ちの飛報が大坂に達したのである。新政府の処置に不満であった在坂徳川軍はいっせいに奮起し、薩摩藩を討って一挙に幕府勢力を回復しようといきり立った。慶喜も老中も、この主戦論を抑えることはできなかった。