慶応四年正月二日、徳川軍一万五千は、君側の奸を除くという名分をもって、伏見街道と鳥羽街道から進軍を開始した。このような事態に至っても、朝廷ではなお慶喜をどのような形で入京させるかを討議し、断固迎え討つという決断がつかなかった。三日正午に至って、三職以下百官の緊急会議を開き、徳川軍に撤退を命じ、もし聞入れなければ朝敵として討伐することに決定した。薩・長・土藩兵を中心とする朝廷軍と徳川軍との間に戦闘が開始されたのは慶応四年(一八六八)正月三日午後五時ころであった。
徳川氏は所領七〇〇万石を有し、諸大名の動向も明らかでなく、しかも、京都を守る朝廷軍は五〇〇〇、徳川軍は、その三倍の一万五〇〇〇であったのに、終始主戦論を主張したのは、西郷・大久保らであった。その気迫と、装備のちがいにより徳川軍はもろくも敗退した。朝廷では、徳川氏を朝敵と認定し、正月七日徳川慶喜追討令を発し、一〇日には旧幕領を没収する旨宣言した。続いて東征軍を起こし、各街道ごとに鎮撫総督が任命され、各地で旧幕領を没収し、抵抗する者を討伐していった。江戸開城、上野戦争、会津戦争と、ほぼ国内は平定された。明治元年(九月八日改元)は戊辰の年で、この年にあった大小の戦いを総称して戊辰戦争という。この戦いにより、徳川氏を含む諸大名の公議政体の夢は完全にほうむられ、天皇親政による全く新しい政体が誕生することとなった。