3 戊辰戦争と房総

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慶応三年一〇月一五日、慶喜の大政奉還聴許後、朝廷では全国の諸大名を京都に召集した。この時点では、徳川氏の処分も明らかでなく、政局の動向も混とんとしていたので、この召命に応じた大名は極めて少なかった。殊に、房総の諸大名は京都の政情も知らない徳川氏譜代の小藩が多かったので、房総一七藩中一四藩が召命を辞し、請西藩主林昌之助忠崇と多古藩主松平勝行は黙殺した。大多喜藩主大河内正質(まさただ)は、慶喜に従って京都にいた。翌慶応四年一月三日、鳥羽・伏見の戦いが始まると、正質は老中格として徳川軍の総督になったが、敗れて慶喜とともに江戸へ退いた。
 慶喜が上野大慈院に退隠して謹慎し、東征軍の停止を朝廷に懇願するに至って、漸く房総諸藩主の中にも上京する者がふえてきた。しかし、結城藩主水野勝知と関宿藩主久世広文は、老臣の諫言も聞かず彰義隊に投じた。
 慶応四年四月一一日、江戸城を収めた東征軍は、続いて旧幕府軍艦を接収しようとしたが、旧幕府海軍副総裁榎本武揚は、軍艦七隻を率いて安房の館山に脱走した。歩兵奉行大鳥圭介は、その党千六百人を率いて市川に走り、撒兵頭福田道直も兵千五百人を引連れ、上総の木更津に脱走した。これより先、新撰組の近藤勇は、甲斐の勝沼で戦い敗れ、下総の流山で大久保大和と変名し、動静をうかがっていたが、四月三日遂に捕えられ、同月二五日に斬られた。このように、旧幕軍残党が房総の地に入り込むことが多く、一時房総の地は騒然とした。
 市川に拠った大鳥圭介は、その主力を率いて結城から宇都宮方面へ移った。その残党は、市川・流山・千住方面でしゅん動していたが、これは四月中に鎮圧された。しかし、木更津に拠った福田道直軍は徳川義軍と称し、諸藩に出兵を促し、金穀・兵器を徴発して勢いを振るった。その一部は船橋に屯集し、付近にひそんでいた旧幕軍残党がこれに加わり気勢を挙げていた。大総督府は討伐軍を差向け、緒戦には苦戦したが、態勢が整うにつれてこれを圧倒し、房総内部に向けて進撃を開始した。総督軍は先ず佐倉を目指し、ここを本拠地とした。佐倉の藩論は、勤皇・佐幕二派に分かれたが、老臣平野重久の主張が藩論を制し、総督を迎え入れた。総督軍は、閏四月四日検見川に進み、更に千葉から上総の八幡・五井の旧幕軍を敗り、七日には姉崎に達した。
 木更津の福田道直は、要害堅固な久留里城を根拠地にしようとしたが、久留里藩の態度が決しないので真里谷(まりや)に屯集していた。しかし、五井・姉崎の敗報がはいるやたちまち戦意を失い、一兵も残らず逃散してしまった。横田・勝山方面の旧幕兵もいつの間にか姿を消し、総督軍は戦うことなく房総の地を制圧した。この間、房総諸藩の態度は極めてあいまいで、旧幕軍におもねるかと思うと、後から進んできた総督軍にひたすら恭順の意を示すというありさまであった。
 房総諸藩のうち、大多喜藩主大河内正質(まさただ)は鳥羽・伏見戦に参加したので、その罪を問うため、総督軍は大多喜に向け進撃した。東金・茂原を経て長南に布陣し、使者を大多喜に派遣したが、正質は既に城を出て菩提寺円照寺で謹慎していた。ここでも戦闘は行なわれず、城地・兵器没収の上正質は佐倉藩に幽閉されたが、八月二一日罪を許され、大多喜藩主に復した。
 比較的大藩で、徳川家と関係の深い佐倉・大多喜両藩でさえも、自藩の安泰のみを願い、ひたすら恭順の意を表すだけであるから、他の小藩に至ってはなす術も知らなかった。このような中で、ひとり徳川家の恩顧に報いようと気を吐いたのは、請西(じょうさい)藩主林昌之助忠崇(ただたか)のみであった。それは、天下の政情を知らぬ暴虎馮河の勇ではあるが、何か一掬の清水を思わせるものがあった。
 忠崇は年二一才、木更津に拠った福田道直と会談したが、彼らとは行をともにしなかった。忠崇の方略は、房総の諸大名を糾合し、海を渡って小田原藩と結び、箱根に拠って、機をみて西進しようとする遠大なものであった。遊撃隊の人見勝太郎・伊庭八郎ら三四人がこれに加わった。慶応四年閏四月三日、藩兵と遊撃隊とを合せて百余人を率い真武根(まぶね)陣屋(木更津市真舟)を出発した。総督軍が進撃してくる直前であった。途中、富津砲台を守備していた前橋藩はじめ飯野藩・佐貫藩・勝山藩から武器・金銭・兵員・食糧などを供出させた。各藩とも途方にくれてこれらを差出した。この諸藩は、引続いて進撃してきた総督軍にも、ひたすら恭順の意を表すのみであった。狂爛の時代に、時世を見抜く眼識もなく、信念もなく、決断力も失せてしまった譜代小藩の姿を如実に示している。忠崇軍に武器・兵員・金穀を差出したこれらの諸藩は、大総督府のきびしい追及を受け、それぞれ重臣が切腹して責を負った。
 忠崇軍は、榎本武揚の率いる旧幕海軍の援けをかり、館山港から相州真鶴港へ渡ったが、頼みとした小田原藩の協力を得られず、韮山(にらやま)代官江川太郎左衛門も上京中で、伊豆・相模の地を転々とし、再び館山港に帰着した。ここで、老衰、病弱の者や房総諸藩から差向けられた兵員を残し、旧幕軍艦に乗り込んで奥州に至り、奥羽諸藩が鎮撫された後、明治元年一〇月三日、遂に降伏した。
 房総における戊辰戦争は、このように大規模な戦闘はなかった。しかし、旧幕軍の入り込みやすい地域であったため、小規模な騒乱が続発したが、明治元年九月ころまでに平穏に復した。