4 版籍奉還と廃藩置県

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慶応四年三月一四日、五箇条の御誓文が発せられた。
 一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ。
 一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ。
 一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦マザラシメンコトヲ要ス。
 一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ。
 一、知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ。

 この五箇条は、新政府のいっさいの施策の基本方針となった。江戸開城約一か月前の発布である。この間、没収した旧幕領や朝廷軍に反抗して没収された大名領を統治するため、早くも知県事を任命している。七月二日、久留米藩士柴山文平が、安房上総知県事に任命され、旧幕領の統治に当たった。七月一七日、江戸が東京と改められた。この時点では、東北の会津藩はなお頑強に抵抗しており、これが降伏したのは明治改元後の九月二二日である。
 東北平定により新政府の基礎は確固たるものとなった。明治二年(一八六九)三月二八日、都を東京に遷し本格的新政が行なわれるようになった。先ず、第一に進められたのが封建制度の撤廃である。大名たちとしては、幕府がなくなっても封建諸侯代表の合議制で朝政が執行されるものと思っていたが、下級武士出身の新政府高官は、彼らが土地人民を私有している限り新政府は武力も財力もなく、全国統一の政治ができないことがわかっていた。そこで断行されたのが版籍奉還である。版とは土地、籍とは人民のことである。明治二年六月、倒幕の雄藩である薩・長・土・肥四藩主が先ず奉還を願い出たことにより、全国の諸藩がこれに追随した。封建諸侯が版籍奉還を望むわけがない。しかし、戊辰戦争を通じて力の逆転が生じ、かっての下級武士たちの勧めを藩主も拒むことができなくなっていた。ただし、この時は、各藩主とも政府の地方官として知藩事に任命され、面目を保つことができた。
 版籍が奉還されても、旧藩主が知藩事として統治したのでは、どうしても封建的主従関係から抜け切ることができない。そこで、明治四年(一八七一)七月一四日廃藩置県の詔が発せられ、知藩事は全員免官となり、政府官僚が県令として任命された。かくて封建的支配関係は一掃されたのである。直属の武力をもたず、財力も乏しい新政府が、封建制度一掃のための大改革を、一滴の血も流さずに成し遂げたことは驚異といわなければならない。版籍奉還と廃藩置県こそ、近代日本への真の出発点であった。