6 陋(ろう)習の打破

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「旧来ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クベシ」との国是は、基本的には版籍奉還、廃藩置県という大政策により推進されたが、数百年にわたり培われた封建的陋習は、生活の身辺に満ち満ちていた。新政府は、封建的悪習や不当な特権を打破ることに努めた。
 江戸時代の庶民は、特に許された者以外は氏を称することができなかったが、明治三年には、だれでも氏を称してよいことになった。江戸時代の農民が氏をもっていなかったわけでない。有力な農民は、みな氏をもっていた。社寺への寄進状や参詣者名簿などには氏を記したものが多い。安政五年の伊勢太々講姓名帳(2)には、刑部村鶴岡半兵衛、初芝村酒巻六左衛門、針ケ谷村石井宗右衛門のように、数十名の者が皆氏を書いてある。ただし、領主・代官・評定所・関東取締出役などへの差出文書には、百姓善右衛門、名主長右衛門といったように書き、氏をつけていない。町人も上総屋総右衛門のように屋号をつけるに過ぎない。即ち、氏を称することができるか否かは、庶民と特権階級との差別を最も端的に示すものであった。
 明治二年一二月一三日、鶴舞藩牧民局から名前制限の達章(3)が回されたが、これは差別とは関係がない。「左兵衛・右兵衛・左衛門・右衛門・丞・允・進・亮・佐・介・佑・輔・助・守・大夫・左馬・右馬・司、右之外総テ官名ニ拘リ候類、憚(はばか)ルベキ事」というものである。太政官の官名と混同することを避けたものであり、士族も平民も同然に扱われた。従って、名前に著しい変化が起こり、彦左衛門・半兵衛・宗右衛門が、彦次・半三・宗平といったような名前に変っていった。
 住居についても、江戸時代にはきびしい制限があった。百姓は「不似合の家作をしてはならない。」との禁令があり、藩によっては板敷まで禁じていた。門や塀や玄関などは、特別の家格の者でなければ許されなかった。明治政府は、いっさいの家作の制限を廃したので、明治以降急速に長屋門などがふえた。現在、農村に見られる長屋は、大部分が明治以降の建築である。
 明治四年、庶民も馬に乗ることが許され、また、頭髪を切って、いわゆる「ざんぎり頭」にしてもよいことになった。武士階級の象徴である刀もつけなくてよいことになり、明治九年には帯刀が禁止された。人身売買や拷問(ごうもん)なども禁止され、仇討ちや斬捨御免などもきびしく取締まられた。もちろん、貴人や高官に出合っても土下座をする必要はなくなった。明治初年におけるこの急速な近代化は、文明開化ということばに象徴されるように目ざましいものがあったが、欧化主義を軽薄に受取る者も多く、古来の良風や貴重な文化遺産を失うような行過ぎもあった。