慶応四年(一八六八)一月、鳥羽・伏見の戦が始まり、朝敵となった徳川氏の所領は没収された。
房総の地の旧幕脱走兵の抵抗が鎮圧されると、七月二日久留米藩士柴山文平が安房上総知県事に任命された。郷土も、鶴舞藩領となるまでは、房総知県事の管轄下にあった。
房総知県事役所は、最初東京の深川に置かれていたという。郷土史料に「房総知県事東京役所」と書かれたものがいくつかあった。後、市原郡八幡宿に、次に埴生郡長南宿浄徳寺に移り、更に山辺郡大網宿宮谷(みやざく)に移ったが、間もなく宮谷県が置かれ、ここが庁舎となった。このように、短期間に役所を移すなど、旧幕時代の関東取締出役の動きを思わせる。文書の発送、伝達の方法も旧幕時代そのままであり、組合村大惣代を通して統治がなされた。知県事は、民政・収租の外、管内の刑罰や褒賞の権をもち、府県兵も管理した。
幕府滅亡により、一時的に支配者のいなくなった農村では、奔放な行動に走る農民も現れた。明治元年(慶応四年九月八日改元)一一月八日付けの知県事よりの触書に、御林山での伐木の禁止がある。「御林山江猥(みだり)ニ立入伐木いたし候ものもこれ有る哉之趣、以之外(もってのほか)之事ニ候」として、禁令とともに、旧幕府直轄林を再調査し、取締人を選任の上名前を報告することを命じている。(4)江戸時代においても盗伐は間々あって、厳罰を加へられている。幕府滅亡により加罰者がいなくなり、大びらに伐木する者がふえてきたのであろう。
動乱の中で乱れ果てた支配秩序再建のための触書もみられる。明治元年一一月一三日付けで出された触書に次のようなものがある。
関東取締りのことは先に触れておいたが、近いうちに当官付属の高松金八外八人の者どもが村々へ出張し、村役人どもと打合わせ御用を弁ずるから、「組合村々大小惣代寄場役人之内、当節欠員これ有る分は」早速人選の上取りきめ、その名前を差出せ、というものである。これらの役人は、関東取締出役に連なる組織で、領主の支配系統とは別なものであった。幕府消滅とともに関東取締出役もいなくなり、大小惣代や寄場役人が欠員となっても補充する必要がなかったのである。新しい支配者である知県事は、さしあたって旧幕時代の統治系統を活用するため、組織の再建を図っている。
知県事役所の官名に「会計官」とか「民政司」といった近代的な用語を用いているが、その触書の文章は、「関八州村々役人共江、洩(も)らさざるよう触置くべきもの也」というように、旧幕時代そのままであった。
しかし、長期にわたる徳川治世にあき疲れていた郷土の人々は、新政権に好意的であったように思える。全国的にみても、鎮撫総督軍は歓迎された。歓迎されたというと誤解もあるが、少なくとも旧支配者より好意的にみられた。それは、民心収攬のため減税などの公約を掲げたからである。この公約は、間もなく破られるのであるが、明治元年の時点においては救世主のように考えられた。郷土の人々も、徳川将軍に代って日本に君臨した天皇の直支配所となったことを誇りに思ったようである。旧幕時代の天領農民が、隣接した私領農民に対し優越感をもったことと似ている。そこへ遠州浜松城主井上河内守移封のうわさが流れたのである。ここで、封建領主の支配に戻ったなら、再び昔の重苦しい生活に帰ってしまうと考えた郷土の人々は、明治元年一一月房総知県事役所へ、「永久御支配所御懇願書」(5)を差出している。針ケ谷村・初芝村・立鳥村・鴇谷村名主、組頭、百姓代の連署で、房総知県事長南役所に提出した懇願書の要旨は次のようなものである。
私ども四か村は、種々難渋が打続き、一同衰微しております。殊に両三年は格別の困窮で、この春以来既に小前末々の者は離村して出稼ぎの覚悟をした者もあり、真に心痛に耐えないものがあります。しかるに、今般天朝料御支配所となり「冥加至極有難仕合(みょうがしごくありがたきしあわせ)」に存じておりましたところ、近頃承るところによりますと、「何れ歟(か)御領分御引渡シ相成趣(あいなるおもむき)之風聞これ有り、実以(じつもって)当惑仕(つかまつ)り」、万一他家へ御引渡しになりましては、また、小前末々まで騒ぎ立て、しょせん、亡村同様となりますので、何卒天朝料として永久に御支配下ださるよう歎願申しあげます。
この歎願書は、四か村のみで出したものでない。既に金谷村から「天朝料御支配永久御受申度旨」の出願をするよう、各村々へ回状してあったので、相当広範囲にわたり同一歩調で出願したものと考えられる。しかし、井上河内守の入封は、間もなく実現した。