2 鶴舞藩

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房総知県事が今の長柄町を支配したのは、慶応四年(一八六八)七月から明治二年(一八六九)二月までの約七か月間である。正式にいうと、慶応四年七月二日柴山文平が安房上総知県事に任命されてから同年九月五日井上河内守正直が遠州浜松より市原・長柄・埴生・山辺四郡のうちに移封されるまでの二か月余りであるが、井上正直の入国が、翌明治二年二月一一日であったので、その間の統治は房総知県事が行なっていた。郷土史料から、その間の日付けの房総知県事役所との往復文書が数多くみられる。
 遠江国浜松城主井上河内守正直が、幕府崩壊後上総国に移されたことには理由がある。徳川氏の復興を恐れて徹底的にその覆滅を図った新政府の討幕派岩倉具視・西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允らも、全国制覇の見通しが立って自信をもってきた。一方、徳川氏と親しい山内容堂や松平春嶽らは、依然として慶喜の助命と徳川氏の存続運動を続けていた。このような情勢下で行なわれた西郷隆盛と勝海舟の会談で江戸城明渡しの和議が整い、その条件のひとつに徳川氏存続のことがうたわれていた。この条件が朝議でも可決されたのは、容堂や春嶽らの努力だけでなく、討幕を主張した新政府の要人、特に下級武士出身者の心境に変化が起こったことを示している。既に支配者となった彼らは、これ以上旧体制を破壊し尽すと、一般民衆の盛り上る力を抑え切れず、新支配者としての自らの地位も危くなると感じたのである。徳川封建体制打倒を叫んで民衆の宣撫工作に成功し、幕府を倒した彼らは、新しい支配階級として徐々に保守化し始めた。このようなことは、歴史上しばしば見られることである。ともあれ、時勢の急激な変化とともに徳川氏は滅亡を免かれた。
 慶応四年五月二四日、田安亀之助(徳川家達(さと))に徳川宗家を嗣ぐことを許し、これに駿府城(静岡)を与え七〇万石を賜わった。この七〇万石は、主に駿河・遠江の内で与えられたので、ここに領分を有した諸侯が多数国替えとなった。その場合、天領と旗本知行所の多い房総の地が新領土として与えられるケースが多く、井上河内守正直も市原郡一〇八か村、埴生郡四八か村、長柄郡四二か村、山辺郡八か村、合せて二〇六か村六万二二七五石余りを与えられた。
 現在の千葉県域には、従来からの藩が請西(じょうさい)藩を除き一四藩(6)あった。そこへ、明治元年駿遠の地から七藩が移って来たので、計二一藩となった。明治二年一一月、大網藩が羽前長瀞から転入し、明治三年三月曽我野藩が下野の高徳から移って来て計二三藩になったこともあるが、大網藩は、明治四年二月、常陸の竜ケ崎に移った。
 藩領以外は知県事の管轄下にあったが、明治二年二月二〇日宮谷(みやざく)県が置かれ、柴山典(文平)が権知事となり仮庁舎として山辺郡宮谷の本国寺を使った。また、下総には葛飾県が置かれた。当時、東京や京都、大坂などは府と呼ばれたので、このころを府藩県三治の時代という。
 井上正直が鶴舞藩主として郷土を支配したのはきわめて短期間であった。明治二年六月には版籍を奉還したので、封建領主としての支配は一年に満たないが、引続いて藩知事に任命されたので、約三か年弱の間郷土の統治に当たった。