3 鶴舞御本営の造営

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 短期間で郷土を去った井上河内守の名が後世に語り伝えられているのは、主に鶴舞の開発にあった。正直が本拠とした長南の長福寿寺は手狹まで、どこかに庁舎や家臣の住宅を造らねばならなかった。正直が封建領主的感覚で目を付けたのが、市原郡石川村の内の、ほとんど無税の地であった高原状の台地、字桐木原(きりぎのはら)である。桐木原への庁舎造営願いは、明治二年二月一二日聴許された。
 桐木原の庁舎、知事邸宅、藩士家屋等が落成したのは、版籍奉還後の明治三年(一八七〇)四月である。引越しにつき牧民局から触が出た。「来ル廿日、鶴舞御本営江知事殿御遷之事ニ候。且、政庁始諸局共同日より廿五日迄ニ引移候条、村々可其意候事」(7)
 四月二〇日の引越し予定は一日遅れて二一日になった。移転に当たり大量の人足馬が触当てられた。
 
        覚(8)                      刑部村
    一、人足弐百五拾八人
    一、馬 弐百三疋
         此人足四百六人
         馬壱疋ニ付人足弐人割
   右は、明十五日より日々四拾人ヅツ雨天日送りニて、鶴舞竜渓寺門揃、朝正四ツ時無相違差出可申事
     四月十四日                                  久保田盈江
                                       右村 名主方
    猶々四拾人ヅツ出払候迄ハ可差出候事

 
 これは、刑部村組合一七か村への触当てである。毎日四〇人ずつ出て、六六四人が出払うまで、雨天順延で差出せと指示されている。日数も一四日余りかかる。領内に総て割当てたと考えられるので、延人員は膨大なものとなる。馬を全部人足に替えているのは、当時長南と鶴舞の間は、馬の通れない山道であったからである。まさに人海戦術であった。
 鶴舞本営が竣工すると、知事から祝いの品が下賜された。「三年庚午三月廿四日、藩知事御自詠及扇子・盃等ヲ村長其他エ賜ヒ、これを牧民執事エ相達ス」(9)として、村長どもへは扇子と盃、八八才以上の者どもへは扇子と菓子料、老人どもへ菓子料として金百疋、村民毎戸へ扇子が配られた。知事自詠は、
  万代乃太乃美掛久倍木家国廼(よろづよのたのみかくべきいえぐにの)
   柱乃与津波民爾在利気留(はしらのよつはたみにざりける)

である。これは、入封時に下賜しようとしたのであるが、入国早々多忙のため延引され、発庁を記念して配布された。
 井上正直は天保五年生れ、浜松六万石の藩主として幕閣で老中を二回も勤めている。この練達の政治家は歌もよくし、小幡重康氏の編で「旧鶴舞藩主井上正直歌集」が刊行されている。
 桐木原一帯が、鶴舞と命令された根拠は明らかでない。鶴舞県歴史には、「地形自然ニ鶴翼形ヲナスヲ以テ名クト云フ」とあり、上総の昔話(10)には、「地形が鶴の舞う姿に似ていたからともいいますし、石川村の地名に、もとから鶴舞という所があったので、それをとって付けたものだともいわれています。」と記述されている。