桐木原の庁舎、知事邸宅、藩士家屋等が落成したのは、版籍奉還後の明治三年(一八七〇)四月である。引越しにつき牧民局から触が出た。「来ル廿日、鶴舞御本営江知事殿御遷之事ニ候。且、政庁始諸局共同日より廿五日迄ニ引移候条、村々可レ得二其意一候事」(7)
四月二〇日の引越し予定は一日遅れて二一日になった。移転に当たり大量の人足馬が触当てられた。
覚(8) 刑部村
一、人足弐百五拾八人
一、馬 弐百三疋
此人足四百六人
馬壱疋ニ付人足弐人割
右は、明十五日より日々四拾人ヅツ雨天日送りニて、鶴舞竜渓寺門揃、朝正四ツ時無二相違一差出可レ申事
四月十四日 久保田盈江
右村 名主方
猶々四拾人ヅツ出払候迄ハ可二差出一候事
一、人足弐百五拾八人
一、馬 弐百三疋
此人足四百六人
馬壱疋ニ付人足弐人割
右は、明十五日より日々四拾人ヅツ雨天日送りニて、鶴舞竜渓寺門揃、朝正四ツ時無二相違一差出可レ申事
四月十四日 久保田盈江
右村 名主方
猶々四拾人ヅツ出払候迄ハ可二差出一候事
これは、刑部村組合一七か村への触当てである。毎日四〇人ずつ出て、六六四人が出払うまで、雨天順延で差出せと指示されている。日数も一四日余りかかる。領内に総て割当てたと考えられるので、延人員は膨大なものとなる。馬を全部人足に替えているのは、当時長南と鶴舞の間は、馬の通れない山道であったからである。まさに人海戦術であった。
鶴舞本営が竣工すると、知事から祝いの品が下賜された。「三年庚午三月廿四日、藩知事御自詠及扇子・盃等ヲ村長其他エ賜ヒ、これを牧民執事エ相達ス」(9)として、村長どもへは扇子と盃、八八才以上の者どもへは扇子と菓子料、老人どもへ菓子料として金百疋、村民毎戸へ扇子が配られた。知事自詠は、
万代乃太乃美掛久倍木家国廼(よろづよのたのみかくべきいえぐにの)
柱乃与津波民爾在利気留(はしらのよつはたみにざりける)
柱乃与津波民爾在利気留(はしらのよつはたみにざりける)
である。これは、入封時に下賜しようとしたのであるが、入国早々多忙のため延引され、発庁を記念して配布された。
井上正直は天保五年生れ、浜松六万石の藩主として幕閣で老中を二回も勤めている。この練達の政治家は歌もよくし、小幡重康氏の編で「旧鶴舞藩主井上正直歌集」が刊行されている。
桐木原一帯が、鶴舞と命令された根拠は明らかでない。鶴舞県歴史には、「地形自然ニ鶴翼形ヲナスヲ以テ名クト云フ」とあり、上総の昔話(10)には、「地形が鶴の舞う姿に似ていたからともいいますし、石川村の地名に、もとから鶴舞という所があったので、それをとって付けたものだともいわれています。」と記述されている。