6 年貢と諸役

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明治初年の年貢収納の率や方法は、江戸時代と少しも変わらない。石高に応じて年貢割付状が発行され、村方から請書が差出され、納入後皆済目録が与えられるという過程は、明治六年以降の地租改正まで続く。ただし、明治五年八月には金納が認められたが、米納でもかまわなかった。
 夫役(ぶやく)は江戸時代より重くなった。新しい領主が、居城もない地に入封し、本営を無人の台地に築いたのであるから、人足馬を大量に必要としたことは想像に難くない。鶴舞本営への引越し夫役に、刑部村組合一七か村だけでも六六四人動員されたことは前述のとおりである。
 明治二年九月一一日、金谷村名主弥左衛門よりの回章を受けて、初芝・針ケ谷・立鳥・鴇谷村名主たちは、切どおしの堺屋に会合した。用件は、長南御役所腰掛普請入用金の高割りである。割当ては、高百石に付き銀三匁であった。同九月一〇日には、鶴舞藩の者が通行するので、針ケ谷村では馬四疋を差出している。馬には馬士がつくので、才領(さいりょう)一名を入れて計五人の者が出なければならなかった。
 新領主は、領内の村況調査のため郡村調役所を置き、係官を回村させた。これら諸出役の際、休泊の賄は一汁一菜にするよう回状があった。村方では、道案内人を出したり、休泊の接待をしたりして、なかなか大変であった。
 牧民局では、収納米取立ての係官を出役させている。明治二年一二月一五日、深沢・笠森・大庭・金谷・大津倉・田代・刑部・針ケ谷等八か村の収納が行なわれたが、この日は、案内村役人一人と人足一人が長南牧民局へ集合した。このようなことは、旗本知行所のころは無かったことである。
 以上は、針ケ谷村の触書や達章の写(11)から拾ったものであるが、大きな土木事業としては鶴舞へ通じる新道開発があり、前代未曽有の悪夫役としては、東海道三嶋宿新助郷があるので、別項で述べてみたい。