7 石川村助請(じょせい)

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鶴舞県歴史政治之部工業の項に、
 「明治二年己巳十一月廿三日東方長南駅ヘ通スル隣奥野(村あり)村ヘ一道ヲ開キ新坂ト字(あざ)ス。奥野深沢両村ノ境ニ一小山アリ。阪路羊腸牛馬通スル能ハス。依テ山腹ヲ洞通シテ長南駅ヘノ通運ヲ便ニス。而シテ其費用ハ該藩士ヲシテ之ヲ出サシメントシ大参事ヨリ之ヲ相達ス。其文ニ曰ク。
  長南ヨリ鶴舞迄ノ内、奥野深沢両村間嶮岨ノ山道ニテ人馬ノ労少カラス、加之上下不便利何分其儘難差置、至急右山ヘ隧道開鑿候事ニ御決定相成候処、何分御多費中之儀不行届、依テ五拾俵以上ノ無職童児且兵隊操練被免ノ輩、別紙ノ通リ出金被命候条御普請御用掛ヘ申談シ可差出候事」
 として別紙で無職一五〇俵以上の者一五両あて、一〇〇俵以上ノ者一〇両あて、五〇俵以上の者五両あて、また童児ならびに兵隊訓練被免の者一〇〇俵以上二両あて、五〇俵以上一両以上出金するよう命じている。深沢・奥野間の隧道は、藩士の拠金によってできたものである。
 大土木工事は、藩で行なったのであるが、中小の工事は村方の負担となった。特に鶴舞根郷(ねごう)である石川村は、鶴舞へ通じる新道開発で苦しんだ。明治四年(一八七一)この新道を利用する村々へ助金を要請した。
     石川村御助請(ごじょせい)之回状之写(12)
 一、今般当村地内ニ而靏舞御城下江都而(すべて)通行宜舗(よろしく)相成候様、新道開拓所凡四百間余、橋都合拾壱ケ所在之候。
  普請被仰付候得共、小村之儀ニ付村方ニ而も何様不行届拠(よんどころなく)御通行村々様御助請之程偏(ひとえに)御願奉申上候一向御憐察之上御助金可下候様、伏而(ふして)奉願上候。以上
   未 正月                                    靏舞根郷石川村
   一、金弐百疋                                   針ケ谷村印
 貨幣単位としての疋はよくわからない。江戸時代初期一〇文一疋(13)といわれているが、幕末には一匹二五文ぐらいに銭相場が下落していたので、二〇〇匹は、銭五貫文ぐらいであると考えられる。このように藩領となったための負担増があったことは事実である。新領主入国により、物心両面の負担増はあったが、反面地域の開発に貢献したことは見逃せない。江戸時代の旗本は、ほとんど江戸にいて自らの知行所を顧みることがなかった。産業開発も土木工事も村方に任せ放しであった。郷土に見るべき特産品もなく、農業の基盤整備も行なわれなかったのは、江戸で都市的消費生活を送っていた弱小領主の支配下にあったためである。それに反し、短期間とはいえ鶴舞藩の施政には見るべきものもあった。後で述べるように、荒地の開墾や産業開発への意欲があった。その中でも、鶴舞に町をつくり、これに通ずる道路を開発したことは、永久に記念さるべき功績であろう。
 藩領となったための夫役の増大は、一面郷土の開発に役立ったが、次に述べる東海道三嶋宿新助郷の賦課は地域に無関係な夫役であり、新政府になったための新たな国役である。