8 東海道三嶋宿新助郷

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明治二年三月二八日、都が東京へ遷された。しかし、京都は平安以来九百年近い都であり、維新回天の事業の中心地でもあったので、東京・京都間の役向きの往来は繁かった。江戸末期から、既に東海道沿いの村々の助郷負担は限界に達しており、明治政府となってから、遂に上総の村々にまで東海道新助郷勤埋が申渡されるに至った。驚いた刑部村組合一七か村の役人どもは、急ぎ鶴舞牧民方役所へ新助郷御免の歎願書(14)を差出した。その要旨は次のようなものである。
  五街道宿駅助郷の儀は、「往古より未曽有之儀ニ付」村々大小百姓末々に至るまで、承伏できません。近境の助郷ならば正人足ですから如何様にも力を尽しますが、遠境のこと故、金勤めならとに角、夫人足の儀は精力の尽しようがありません。
 この歎願は容認され、明治三年三月三〇日限りで御免となり、その代り、高百石に付き金五両の金勤めとなった。しかし、百石につき五両の夫金は容易に出金できるものでない。明治三年七月、再び歎願書を差出して、年賦出金を願った。この願書には、郷土農民の苦渋が浸み出ている。
  出金の儀は、御国恩に報い奉るため、精々調達して御上納申上げたい心底ですが、何分近年違作続きで諸物価は高値となり、特に昨辰・巳の両年(明治一、二年)は大凶作で、その上「兵馬倥偬(こうそう)之御時節トハ乍申莫大の夫人足、其後諸家様方御入国」のための夫役も多く、僻国で人家も少なく、昨巳年より飢饉同様の有様です。外に国産余業稼ぎもなく飢渇に迫り、藩県様より御救米麦を戴いてようやく今日を送っている次第です。従って、割付け道りの勤高出金の余力もありませんので、高百石に付き五両勤めのうち、金二両を当年一一月出金、残りの三両は三か年賦出金にしてくださるようお願い申しあげます。
 この懇願も認められ、刑部村組合高五七八〇石の高割りで三か年賦出金ということになった。高割りも五七八〇石全部にかかるわけでなく、村々諸引四六〇石余、刑部徳増両村の御用駅場引二二六石を控除した残りの約五〇八四石の四〇%が賦課高となっている。即ち、約二〇〇〇石余に対し、高一〇〇石につき五両の出金となる。この時の出金総額は、一〇一両二分と永八七文八分で、明治三年一一月二〇日に金四〇両二分と永一七五文一分二厘を納入し、残りは二一両一分と永八七文五分六厘ずつ三か年賦で納めることとなった。

東海道三嶋宿新助郷被免歎願書写
(針ケ谷 小倉喜代巳家蔵)

 江戸時代にも、遠国の国役があり、金勤めをしていたが、東海道の助郷はなかった。この三嶋宿助郷は、どうやら、資金に困った新政府の財源捻出の一手段のような印象を受ける。恐らく、今回だけの助郷役で、遠隔地のこと故必ず金勤めになることを予測していたものと考えられる。新政府になっても、農民の期待に反し、誅求はゆるめられることがなかった。この歎願書から、戊辰戦争中から鶴舞藩の入国にわたり、如何に夫役に苦しめられていたかがうかがえる。