鶴舞藩・県の時代は短かかったので、諸政策の成果を挙げるまでには至らなかったが、房総諸藩・県の中では最も積極的に産業振興政策を打出している。千葉県史明治編や鶴舞県歴史から、郷土に関係する殖産興業政策を拾ってみると、次のとおりである。
先ず、新田畑の開発についてみると、明治二年(一八六九)から四年にかけて、市原・埴生・長柄・山辺の各郡内で、約一町歩の田と六八町歩の畑を開いた。郷土では、針ケ谷村字柳沢外六か所で野山地一町九反一畝一〇歩の開墾を始めている。
勧農政策として驚くべきことは、明治初年に既に養豚・養蚕に力を入れ、その普及を図っていることである。明治二年一一月一五日、いち早く生産局を設け、明治三年七月には養豚掛りを任命して飼育を試験的に開始し、翌四年六月二〇日には養豚希望者を募集した。その布達は次のようなものである。
養豚法試験中ノ処、子豚孳育(しいく)ニ付、畜養致度望(ちくよういたしたきのぞみ)ノ者ハ種豚相預ケ置、其出生ノ子豚半数ヲ為二畜養料一被レ下候間、希望ノ者ハ請人相立(うけにんあいたて)、右掛リノ者ヘ可二申出一、猶委細ノ儀ハ同掛リヘ可二承合(うけあう)一候事。
江戸時代、牛豚類は四つ足と称して不浄視し、これを食べると畜生道に落ちると考えていたのに、文明開化とともに牛豚鍋をつつくようになった。その変化に着目し、明治二年から養豚の普及に乗出すとは、鶴舞藩にもなかなかな人物がいたものと考えられる。この布達にみられる方法は、「豚小作」と称して最近まで行なわれていた。
養蚕も、明治四年から官費をもって飼育を開始した。郷土では、鴇谷村と味庄村に生産掛りが出張し、試験的に養蚕法を教えている。この両村が選ばれたのは、付近の山に天然生の桑の木があったからである。しかし、天然生の木では良質の葉が得られず、その量も満足ではなかったので遂に好結果をあげることができなかった。
その他、藩士の困窮を救うため、傘の柄の内職を指導しているが、浜松から後進不便な地に移って来て、多難な日々であったと推察される。